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武道と仏道

先日、『武道と仏道』をテーマに執筆の依頼をいただきました。私にとって「道」といえば仏道で、武道についてはまったくの門外漢です。武道を語れる身ではないものの、武道と仏道には多くの共通点がるように思います。
ーー系譜を重んじ、師から弟子へ面授で受け継がれること。流派の型が確立されており、エコシステムが回っていること。身体性・精神性を伴う人間形成を大切にし、その過程に段階はあっても、目的は比較や勝負を超えていること。人が集い、道を深める鍛錬の道場があり、場や道具は神聖なものとして、掃除や手入れもまた道の一部とする修行観にあること。
 
私はこれまで、場としての道場を自ら持つ縁はなく、流浪の仏道人生を送ってきました。道場主としての経験もない私が唯一誇れることは、たくさんの道場主、すなわちお寺の住職方と交流させていただいてきたことです。そして、ご縁をいただく多様な方々の多様な問いに、自分なりに仏教を翻訳し応えることを重ねてきました。私にとっての道場は、そうしてご縁をいただく皆さまと、「仏道の可能性」を共に探求する人生そのものかもしれません。

「今、ここ」と「先祖供養」

 日本仏教のお寺は本来、「先祖供養」と「今をいかに生きるか」の智慧を包含する器であって、過去から受け継がれる技や智慧の学びを深め、「今ここ」をもって未来へ繋ぐ、神聖な儀礼の場であり、道場です。
智慧や技術は、使い手の意識や態度、使途や用い方によって如何ようにもはたらきます。目先のメリットを求めるテクニックとして用いれば、仏教が向かおうとする悟りとは逆方向にはたらきかねない。世界的な仏教志向の潮流のなか、無自覚にも、本来の道を見失う危うさを孕んだ現状に、私たちは日本仏教からどのように応答できるでしょうか。その翻訳の仕方を探っていた途上で出会ったのが、「私たちはいかにしてよき祖先になれるか」という問いでした。テクニックに収まらない、仏道の土壌を耕す問いかけです。

祖先の視点から、見直してみる

今、社会は「多様性」「共生」「サステナビリティ(持続可能性)」を問うています。しかし私たちは本当のところ、どれだけ他者にまなざしを向け、自らの体験の範囲を超える世界を尊重できているでしょうか。祖先を敬い、「過去」へ思いを馳せることは、利己から利他へと心が開かれる営みです。子孫を思い、「未来」へ思いを馳せることもまた、同様でしょう。日本仏教は、死者の供養という儀礼を通じて、過去を振り返る営みを重ねてきましたが、過去に手を合わせることは、未来を志向することでもあります。「いずれそちらへ行くわたし」が死者たちと対話する毎朝の仏壇参りは、死を媒介とした日々の仏道です。

思えば仏教では、私たちの願いを一切衆生に振り向けることを「回向」と呼び、法要の読経に回向文は欠かせません。願いは、過去から未来を含む、生きとし生けるものすべてに向けられています。「山川草木悉有仏性」と万物に霊性を見いだしてきた日本の風土は、私たちを無意識的にも悠久の時空間ヘと誘います。意味を問うこともなく、「今、ここ」に手を合わせ、目の前の相手を前にお辞儀をし、手元・足元の掃除と手当を繰り返す習慣は、この土地の日常に根付いた本能的な営みかもしれません。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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