見出し画像

はざまにあることの苦しみ

 「上から/下から」「会社から/現場から」。そんなはざまにあって、どうしていいかわからない――。

 産業僧として、さまざまな企業のいろいろな職業、ポジションの方をオンラインで訪ねていると、そんな解消できないジレンマを多くの人が抱えているのがよくわかる。

 上からは逐次、指示や達成目標が降りてくる一方で、下からは「そうはいっても……」と実情に即したリアルな要望が寄せられる。

 同じ立場の同僚に、飲みの席やたばこ部屋で苦痛をこぼせても、立ち止まっている時間もない。腑(ふ)に落ちる回答を出せないままに、しかるべき指示をして、しかるべき結果を報告しなければならないところに立ち、流され続ける日々。まさに、どうしていいかわからない中間管理職の悲痛の声だ。

 これは、中間管理職にあたる人たちが背負う現実としてわかりやすく象徴的に浮かび上がってくるけれど、おそらく多くの人がなんらかの似たような状況にあって、同じように出口を見つけられずに苦悩しているんじゃないかと思う。

成果を上げ続ける終わりなき旅

 小刻みに設定された目標を前に、実績を作り成果を上げ続ける終わりなき旅にありながら、残業するわけにもいかず時間はない。効率よく成果を上げる、ということはわかっていても、「どうしたらいいんだ」と現場から声が湧き、自分の心の内からも漏れてくる。

 こうした矛盾は、企業に限らず、あらゆる単位の組織や社会が抱えている。具体的な事象は異なれど、誰もが経験する苦しみとして、仏教はこれを、人が生きるに大切なテーマとして扱ってきた。

 仏教には、「分別智」「無分別智」という言葉がある。

 一般的には「あの人は分別のある人だ」と言うと、称賛の意味で使われるだろう。しかし、仏教には、ものごとはそもそも「本質的には分けられない」とする世界観が根底にある。分別は必要に他ならないが、向かうのは、それを超えてゆく「無分別智」だという。

 分別は、ともすると「よいか悪いか」「右か左か」というように、物差しをもって二元的な見方で物事を分け、結論付けることになる。そうした結論付けが固定化すると、固定概念が形成されて、現実をありのまま見ることが難しくなる。そうして、「こうあるべきだ」といった分別から生まれた思考や思いと現実とのはざまに苦しみが湧いてくる。分別智が固定されれば、そこに執着が生じてしまう。

 幸か不幸か、多くの場合、私たちは自らの執着に無自覚であるからなおのこと、なかなか苦しみから逃れられずに繰り返してしまうのだ。

 これからの私たちに必要なのは、本来、分けることのできないものを、「分けないまま」においておく力、つまり、わからないものを「わからないまま」においておく力だろう。

 最近、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる力を意味する「ネガティブ・ケイパビリティー」や、矛盾する要素を内包しながら課題を乗り越えてゆく「パラドキシカル・リーダーシップ」が社会で注目されている。

 こうした矛盾を受容していく姿勢や態度は、仏教が説く「中道」につながっている。

 右でも左でもなく、極端を排して真ん中をいく。これは、必ずしも真ん中は「ここ」と定めることではない。どこまで右でどこまで左かは、視点によっていかようにも変わりうる。だからこそ、「こっちは右で、こっちは左、ここが真ん中」と分別をして定めないことが肝だったりする。

 つまり、多様な軸の引っ張り合いがはたらく世界を俯瞰(ふかん)して見るということで、中道とは探り続けるものである。

わかった気になりたい煩悩

 ものごとも、他者や自分の存在も、その状態も、世界もどこまでいっても、本当のところは解決のつかない、分けようのないものでいっぱいだ。概念で捉えてラベルを付けても、実際のところ、この世は分けようのないものであふれている。

 人には、わかった気になりたい煩悩がある。思考する脳をもって生きる私たちは、分別をして状況を理解し、取るべき対応を判断しながら生きている。

 自分の身を守り、他者と交流し、社会をつくるためには必要なことで、「わかろう」とするのは自然なことだ。けれど、その分別の多くは、自動的に、過去の記憶や得た情報、それに伴う感情に基づいて行われ、自分の心のクセに回収されてしまう。

 そうした私たちの性質を自覚して、はたしてそれは、今ここで起きていることを、ありのままに見ているだろうかと、いったん立ち止まり、問い直してみたい。

 分からないままに、おいておく。そして、分からずに途方に暮れることなく、わからないものを上手に取り扱っていく力を養うことが、仏教が伝える「中道」には織り込まれている。

 何をするにも、専門の内に留まっていることは難しい時代となった。ある意味、いや応なく、あらゆる枠がゆるやかになり、様々なコンテクストがなだれ込んでくる時代だ。はざまに立つ中間管理職の人たちは、上下のみならず、他部署や顧客といった横のつながり、さらには社会が求める倫理観や期待など、コンテクストがはたらく範囲は企業の内にとどまらない。取り巻く範囲も、個人から協働するパートナー、チーム、組織、社会――と多層的、多次元的になっている。それは、解決し得ない矛盾の間に身をおくことでもあって、上手に取り扱うことはとても難しい。

ここから先は

419字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!