無が不安定であるという命題について

以下の記事は、次のリンク先に対する注釈である。

無が不安定であるというのは、本来、矛盾している言明である。

なぜなら、実際、それが無であるのなら、そこに変化の生じる機制はない。
つまり、本来、無は、安定している。

無が不安定であるということは、それは実際には、無ではないのであって、何らかのものがあるということになる。

一般的に、無が存在せず、有が遍在している状態が初期条件であるのなら、その条件をもたらした外部の超越者の存在を排除する必要は、特にない。
何故、そのような初期条件であったのかの理由付けは、必要かもしれないし、そうでないかもしれない。

ハイゼンベルクの不確定性原理は、測定する者の存在を前提している。不確定性原理に基づいて、無の不安定性を主張するのであれば、そこには、測定者の存在が前提されているのではないか。

不確定性原理は、一種の人間原理であるとも考えられる。

測定者が存在するのであれば、そこには無はない。初期条件とも言えない。
人間が存在する以前の状態について、不確定性原理を適用することは、果たして妥当なのか?

つまり、無が不安定であると主張する無境界仮説は、そもそも妥当なのか?

観測される無と、観念上の無とは、そもそも同一ではない。後者からは、定義上、何も生じない。その意味で、後者は安定している。不安定ではない。

観測者がいない宇宙について論じることは、量子論的に無意味ではないか。
あなたが、月を見ていない時、その月が存在するとどうして言えるのか。

無が存在せず、有のみが存在することは、パルメニデスの議論に適合している。

この有は、空間に遍在しているのではなく、時間に遍在しているのでもない。そもそも、ここにおいては、空間も時間もない。初期状態なのだから。

スピノザにとっては、この充溢する有は、唯一である実体そのもの、つまり神になる。

初期状態が有であるならば、なぜ、有がはじめに存在したのかは、ウィトゲンシュタイン風に言えば、神秘である。

パルメニデスの存在論も、また、一種の人間原理であると考えられる。存在が考えられること自体が、観測者を前提しているのだから。無が存在しないのも、そこに観測者がいないからである。

無から有が生じない以上、現在ある有と同じだけのものが、初期状態においても存在したと考えざるを得ない。

存在している、それは神秘である。

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