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写文集『いんえいさん』草稿その1: 古代の感受性

闇の中にも目をひらいていたいと思う
人はたいてい
目をつむる
眠る

だが
このしずけさの中にこそある
闇の声に
わたしは耳をすましたい

「闇」(『新編 志樹逸馬詩集』より)

古代の感受性

影や、暗い部分の多い写真を見ると、いつもより時間がとまった感がつよい気がする。なにかほっとするような、それでいて怖くもあるような。なんでそんな感情がわくのか。

夜明けや日の入りを見ると、その感覚を強くする。光を見ながら、そのまわりでは暗い部分がほとんどを占めている。

何万年も昔、洞穴で暮らしていた祖先を想像してみる。生きていくためには食べなくてはならない。食糧を得るためには狩猟をする必要がある。日がのぼっているかどうかは、一大事だったに違いない。

それとは逆に、日が沈んでしまうことは、狩猟ができなくなることを意味している。もしそのまま日がのぼらなければ、きっと飢えて死んでしまうだろう。日がまたのぼるようにと、祈るような気持ちで眠りにつく。

長い間の暗闇をしのぐ。ふと、洞窟の出口にうっすらとぼんやりと光がさしこんでくる。どうやら日はまたのぼってくるらしい。どうやらまだまだ生きのびれるらしい。

朝日がのぼれば、感謝の気持ちが芽生えただろう。日が沈む姿を見るたびに、絶望していたかも知れない。

こんな状況が続けば、光と闇にたいする感受性は、否が応でも鋭くなっていったと思う。

少なくとも数万年以上、その感受性は研ぎ澄まされていった。光であふれている現代はまだまだ二百年と少し。その感受性を更新するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。

そう考えてみると、「少ない光があって、暗い部分が多い」場面を見ると、「なにかほっとするような感もある。それでいて怖くもあるような」感情がわいてくるのにも合点がいく。

そして、そんな場面は朝日や夕日だけに限られるものじゃない。映画館や、プラネタリウム、寝る前の暗い部屋、ふと光と影のコントラストが強くなった風景。意識を向けてみればどこにでもある。

そうした瞬間を撮影したものを、ここではとりあえず「いんえいさん」と呼んでみることにする。

「いんえいさん」という名前は、20世紀を代表する文豪のひとり、谷崎潤一郎が1932年に書いた随筆『陰翳礼讃』に触発されたもの。

「陰翳礼讃」という、ものものしい字面は「インエイライサン」と読む。これは「闇や影をほめたたえる」という程の意味だ。

カタカナにしてもまだよそよそしいので、ひらがなに。文字も少なくして、「いんえいさん」とした。ほめたたえるというよりは、さん付けくらいがちょうど、という距離感。

必要なことはただひとつ。

あーこれは「いんえいさん」だなあ、と思った場面で撮影するだけだ。ちょうど「撮影」という文字にも、「影」が入っている。

こうして現代の狩猟生活では、魚やイノシシだけではなく、闇や影を集めることにもなるのだ。古代の感受性に導かれて。

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