『すずめの戸締まり』に関する補論

 先日『すずめの戸締まり』を見に行った際、その感想や考察に関する記事を書いた。未読の型はぜひご覧いただきたい。ただし、本稿含め両記事ともネタバレを含みますのでご注意ください。

『すずめの戸締まり』を観て|しまのば|note

この記事は前回の記事で論じきれなかった点について補足するものである。


サブキャラとしての草太

 前回の記事では、すずめと草太の役割関係が、これまでの滝と三葉や帆高と陽菜の関係とは質的に異なっており、すずめの単独主人公としての側面が強い作品であることを論じた。このことは結果的に、本作が草太というキャラクターを魅力的に描き出すことに失敗した主要な原因の一つであると思う。もちろん、草太は草太で魅力のあるキャラクターに仕上がっているとは思うが、少なくとも三葉や滝や帆高や陽菜ほどの魅力を引き出すことに失敗していると言わざるを得ない。これには上記の理由のほかに、三つの原因があると考えられる。第一に、叔母たまきと亡き母つばめの存在である。これも前回の記事でふれたが、本作は主人公すずめにとって”大切な人”の役割は草太が独占するものではなく、恋愛と並んで家族愛的な価値が強調される。これは草太の役割を相対的に低下させることとなった。

 第二に、草太はイケメン青年として登場しながら序盤で椅子の姿に変えられてしまい、本来の姿に戻るのは最終盤まで待たなければならない。このことは草太のキャラクター性をうまく描き出すことを困難にした。また、来場特典には以下のような記述がある。

その時点〔引用者註:企画書を書き始めた段階のこと〕で最初のアイデアが頭にあったんです。ひとつは、場所を鎮めるというか、場所を悼む物語にしたいということ。もうひとつは、少女が異形の者と旅をする物語にしたいということ。

『新海誠本』(2022、東宝株式会社・STORY inc.)p,6

つまり、企画段階から決まっていたことという観点から考えれば、むしろ椅子の姿こそが草太の本来の姿なのである。草太が二つの本来の姿を持つことはそのキャラクター性を分極化させ、魅力を描き出すうえで大きな障害になったといえよう。

 第三に、芹沢の存在である。これに関しては草太は全く無罪である。ただ、(個人的な好みの問題はあろうが)芹沢が良い男過ぎるのが悪い。草太と芹沢でどっちを選ぶかなんて決まりきっているではないか。これはラブコメ漫画でありがちな、メインヒロインよりもサブヒロインの方が人気が出てしまうアレに似ている気がしないでもない。

 草太の魅力が足りない、というのは、彼がすずめと並び立つもう一人の主人公として成立するためには、という意味である。それは彼には荷が重いだろう。キーヴィジュアルでツーショットが多く、また『君の名は。』『天気の子』から続くW主人公体制の伝統から考えれば、草太にそのような役目を期待してしまうのはもっともなことであるが、本作のつくりはそうはなっていない。草太はあくまで、すずめに寄り添うたまきやつばめと同格である。これが、前記事で私がすずめのすずめによるすずめのための物語と表現したところである。

音楽の力

 前回の記事では、私はかなり軽率に「オルフェウスしかり、イザナギしかり、冥界に愛する女性を取り戻しに行くことことを試みる男性は、その目的を果たせないのが神話の世界の定番である。常世の国へ愛する者を取り戻しに行く物語は、女性だけに許された領域なのかもしれない」と述べた。ただ、これは正しくないことに気づいた。ここで現存する最古のオペラ作品である『エウリディーチェ』を考える。このオペラはオルフェウスの神話を下敷きにしているが、結末は元ネタとは異なりオルフェオ(オルフェウス)はエウリディーチェ(エウリュディケ―)を取り戻すことに成功する。ここにおいては、神話の世界におけるお決まりが音楽の力によって乗り越えられるその力学が表明されているのである。したがって、常世の国へ愛する者を取り戻しに行く物語は女性だけに許された領域などではない。

 それでも本作の主人公が女性に設定されているのは、音楽ではない力を全面的に押し出したかったからなのだ。それは本作において前二作とは異なりMV的構成が退潮し、ボーカル付き楽曲の使用が極めて制限されていることと軌を一にしているのである。…と述べたら、深読みしすぎであろうか。おそらくしすぎです。

 というのも、本作における音楽の力は確かに発揮されているからである。それは映画の構成自体をMV的にすることによってシナリオのパワーを倍加させていた前二作とは異なるやり方でである。本作では明らかに、懐メロとして昭和期の楽曲が多用されている。「ギザギザハートの子守歌」「男と女のラブゲーム」「ルージュの伝言」「SWEET MEMORIES」「夢の中へ」「バレンタイン・キッス」「けんかをやめて」など、1980年代の楽曲が、主に芹沢の車内曲として流れる。「ルージュの伝言」「夢の中へ」は70年代の曲であるが、前者は『魔女の宅急便』のテーマに採用されたことによって、後者は斉藤由貴によるカバーがヒットしたことによって、どちらも1989年に再ヒットしCDが出ている。いわゆる”失われた30年”が始まる前夜に流行した楽曲であるといえよう。これを単なる新海のノスタルジック趣味であるとして見逃してはいけない。再び来場特典を参照しよう。

僕は〔中略〕日本の人口がかなり多かった世代ですから、自分の加齢が日本という国の老化にシンクロして感じられるのはその意味で当然のことかもしれません。そして東日本大震災というのは自分の、そして日本という国の青年期の終わりを告げるようなタイミングで起きたのだという印象があります。

『新海誠本』(2022、東宝株式会社・STORY inc.)p,9

 日本という国に対して入れ込みすぎというか、情緒的な自己同一化に陶酔してしまっているような雰囲気があるのは否めない。だが、新海のこの自身の老化と日本国の衰退を重ねる理解のあり方は、先の引用で示されたように本作が場所を悼むことをメインテーマとしていることを考える上では重要な意味を持つ。日本の老衰を先取りしたように予めの葬式として本作があるのだとすれば、懐メロの数々はまるで元気なころの遺影のようではないか。

 本作における音楽の力は、表面上は旅情をかきたてる明るさを強力に発揮しながら、日本自体の閉じていく感覚を光が強いほど濃くなる影のように裏支えしているのだ。死や滅びと隣り合わせの状態の中でそれでも生きている・生きていくというのは一貫して新海が描き続けてきたテーマである。だとすれば、母を失っても生きている・生きてきたというその事実によって最後にすずめが自分自身を救う展開になる本作は、終わりに向かっていく世界でも生きることそれ自体に力を見出す意味となるだろう。

 ただ、私は本作もうすこし明るく前向きに解釈したい。20代らしく、50手前のおじさんの“中年の危機”的閉塞感に付き合うつもりはないと宣言してしまおう。そこに住まう日常的な声がミミズを鎮めるように、日々の生こそが社会が衰退していく感覚それ自体をも超えていく展開を期待したい。本作が前二作と違って都市の壊滅を回避することに成功したのも、まさにこのような意味で終わりゆく感覚からの再生を見越しているのだ。そう言い張ってこの補論を締めたいと思う。

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