『すずめの戸締まり』を観て

総括

 新海作品を公開初日に見るのはこれで三度目である。『君の名は。』を映画館で初めて観た時、私の人生は決定的に変わったと言って良い。それが公開初日のことだったのは本当に偶然の産物なのであるが、この奇跡が私に与えた影響の大きさは計り知れない。『天気の子』に続いて本作も公開初日に観に行ったのは、その残り香に中てられてのことだろう。私は6年前のあの日を追体験するために映画館に足を運んでいるのかもしれない。『すずめの戸締まり』は前作『天気の子』から約3年空いての公開となった。アニメ映画業界的には普通なペースである。正直なところ、私は朝起きてTwitterを開くまでその日が公開初日であることをすっかり忘れていた。そこから急いで夕方に観に行く算段をつけられたのは幸運だったといえよう。

 結論から言えば、非常に面白かった。多くの場面で明快さに欠け、分かりにくい設定や展開の難はあったが、それでも画面の絵力(と後述する暴力的なまでのリアリティ)によって強引に魂を揺さぶる迫力のある作品だった。クライマックスの展開には思わず涙腺が潤んだし、なんなら我慢せずにこぼしておく方が楽しみ方として正しかったかもしれない。それでいてコメディリリーフ的な要素も随所にちりばめられており、“今年の三指”くらいで満足していいのであればそのラインを超えていることは疑いようがないと思う。新海一流の圧倒的映像美はそのままに、軽妙なシナリオ展開と魅力あふれるキャラクター達とその演技は素晴らしいものだった。個人的に一押ししたいのは芹沢である。前々作の主人公・滝役を務めた神木隆之介が演じているというファンサービスは抜きにしても、あまりにもおいしいところを持っていきすぎだ。あざとい。好きにしようとしてる。にくいやつだ。彼を物語の後半からしか登場させることができなかったのは本作にとって重大な損失であったが、そのあたりの事情は仕方のないものであろう。

音楽性と雨について(若干のネタバレ要素を含む)

 本作においては、前二作と比べて明らかに退潮した要素が二点あり、その点について言及しておきたい。まず、『君の名は。』『天気の子』に共通した、MV的構成は本作では取られていなかった。作中で用いられたボーカル付き楽曲は極めて限定されており、このことは本作の大きな特徴であると思う。音楽の力で押し切る強引さを控えた作品に仕上がっているといって良い。第二に、雨の描写が少ないことがあげられる。『言の葉の庭』において発揮された新海誠の雨をめぐる描写の卓越性は十分に知られているところであり、『天気の子』においては雨という要素をシナリオ自体の中核に組み込むことにより”雨の新海”として一つの到達点に至ったものであろう。そのような展開を踏まえると、本作における雨の描写は少なく、作劇上決定的な要素を持っているとは到底言えない水準である。これをどう考えるかは悩ましい。伝家の宝刀を抜かずに仕上げてみたかったのか、あるいは雨をめぐる描写は『天気の子』で描きつくしたと満足したのか。いずれにせよこれは本作の特徴の一つであろうと思う。

 

シナリオの構造(以下は本質的なネタバレを含む)

 本作は多くの要素を『君の名は。』『天気の子』と共有している。主人公とヒロインが不思議な力を介して結びつき、その幸福と喪失が描かれる。そして主人公はそれを取り戻すべく奮闘するというメインシナリオを持つことである。本作もこの展開を踏襲している。前二作と異なる点は、主人公が女性であり、取り戻すべき助ける対象が男性であるという点においてある種の逆転が生じている点である。この点については後で詳しく検討したい。このようにメインシナリオにおける構造上の類似性を持つ本作であるが、サブシナリオに目を向けると違った顔が見えてくる。

 それぞれのシナリオをヒロインの側から逆向きに見てみよう。『君の名は。』のシナリオは、三葉の側から見れば全く異なる意味を持つ。メインシナリオである滝視点の話では、不思議な縁によって関わることになった三葉という少女と楽しい時間を経験し、喪失し、そして取り戻す物語である。一方三葉視点では、自らの死、そして糸守という町の滅亡という事態に対して、その運命を回避するために滝という外部者の力を借りながら奮闘するという物語である。『君の名は。』における滝は徹底して部外者であり、本質的には三葉の物語なのだ。そしてこれは『天気の子』においても当てはまる。帆高視点では陽菜と出会い、別れ、取り戻す物語であるが、陽菜からすれば自らの命と町の滅亡を天秤にかける決断を迫られることになる。

 ここでは、三葉と陽菜の間にねじれが生じていることに注意しなければならない。三葉にとっては、自らの死と糸守町の滅亡はセットであり、片方を回避することは同時にもう片方も回避できることを意味していた。すなわち、自身の主体的な決断と行動の結果によってそのような未来を回避するための強い動機があった。一方で陽菜にとっては、自らの生存と東京という都市の存続はトレードオフの関係にあり、生きたいという決断は多くの犠牲を強いるものであること知っていたのである。ゆえに、ただの外部者である滝とは異なり、帆高は陽菜にもっとコミットしなければならなかったのであり、それが『天気の子』を『君の名は。』と分ける重要な分水嶺となっていた。陽菜は帆高の力を借りながら、自らの死を拒絶し、東京の滅亡を受け入れるのである。

 このような観点から考えれば、本作『すずめの戸締まり』におけるヒロイン役(?)こと草太は、どちらかといえば三葉よりは陽菜に近い。終盤の入り口で、草太は自分こそが都市を守る人柱になる役目を負っていることに気づく。これは自らの命と都市の存続がトレードオフになっているという意味で陽菜的である。だが、一方で、草太は陽菜よりもはるかに主体性を欠く状態になっている。草太が柱となったのは彼の主体的決断の結果などではなく、どうしようもない運命に従った結果でしかないのだ。彼に自分の命を取るか東京都の命運を取るかという選択を行う余地はなく、彼は柱になることがすでに決まっていた。草太は三葉や陽菜と違い、主体的決定の機会が徹底的に奪われていたのである。


直接的表現の是非

 『すずめの戸締まり』と『天気の子』の違いについてもう少し詳しく検討していきたい。天災による都市の滅亡というのは『君の名は。』以来新海誠の中核をなす問題意識である。新海はインタビュー等において、その根底に東日本大震災があることを繰り返し強調していた。『君の名は。』における隕石落下による糸守町の滅亡や、『天気の子』における大雨による東京都の滅亡は、すべてこの問題意識に由来するものである。本作においても、人知を超越した力によって都市が滅亡の危機に瀕するという共通のモチーフが見て取れる。が、本作にあっては、前二作とは異なり、結局都市の壊滅という状況は描かれることがなかった。それは、きわめて直接的で生々しいリアリティを持った本作の震災に関する描写を言わば緩和するための手立てであったのかもしれない。

 都市が滅亡しなかったという点以外に、重要な点を二つ指摘しておく必要がある。第一に、破滅を避けるために必要なものが主人公らの個人的な能力によるものではなくなったということである。草太やすずめは確かに特殊な能力を持っている人物ではあるが、彼らは本質的に媒介者でしかない。すなわち、地震災害の原因である”ミミズ”に対抗する手段は、基本的にはその場所に住まう人々の日常的な声なのであり、閉じ師はその力を借りることによってしか後ろ戸を閉じることができないのである。この点は後述する観点から決定的な意味を持つ。第二に、より直接的になった表現をどう見るかという点である。『君の名は。』においては隕石の落下という方法で、『天気の子』においては大雨という方法で、新海は都市の滅亡を描いてきた。これは東日本大災害を受けて当たり前の都市生活が実は全く当たり前ではないという事実に心を動かされた新海ならではの、震災に関する表現だったのである。しかし今回では、直接的に町を破壊する要因となる災害は地震であるし、主人公すずめは母を震災で亡くした孤児(物語開始時点では叔母に引き取られている。踏み込んだ検討は後述。)という設定である。すなわち、『君の名は。』『天気の子』においては念頭にありながらも直接的な表現を避けてきた震災というテーマに、より直接的なアプローチを試みたのが本作なのである。

 この点について、予想される批判について先に検討しておきたい。新海によるこのような描写は震災を商業的に利用し、消費するための行為であり許されないというのがそれである。私はこのような考えに一定の理解を示したい。とりわけ今なお避難生活を(風評加害だなどという心無い罵声を浴びせられながら)送っている人々がどう思うのかハラハラしてならないというのが私の感想である。だが、それでも、一表現者として新海誠によるこのような描写は擁護されてしかるべき圧倒的な理由が存在すると確信している。あのようなショッキングな出来事に直面して、クリエイターとしてのテーマ性にこれほど大きな影響を受けた表現者に対して、それはあなたのものではないと言って取り上げる権利は誰にもないと思うのである。『君の名は。』以来の展開を見れば新海がこのようなテーマに真摯に取り組んできたのは明らかであって、商業主義に対する反感をもとに批判するのは当たらないと私は考える。

 このような問題は当然あるとして、それとはまた別種の問題がここには存在している。はたして、本作におけるこのような直接的な表現は進歩なのか、あるいは退行なのか?一般的に言って、表現したいテーマに対して直接すぎる表現をとるのは能力の欠如として評価される傾向にある。とりわけ新海は、これまで隕石や大雨という表現を通して震災を描くことに成功してきたわけだし、それを成し遂げる能力のある作家であるとみなすべきだろう。では、このような直接的表現を用いたのは彼の怠惰によるものなのであろうか?

 この問いに答えることは私には荷が重すぎるが、一つだけ確かなことはある。新海にとって、このような直接的な表現を取り、その力を使ってでも守りたい、伝えたい、そういう核心的メッセージがあったということである。ここで考えたいのは、地震災害の原因である”ミミズ”に対抗する手段はその場所に住まう人々の日常的な声なのだという設定である。ここで示されているのは、大災害によって簡単に失われてしまう、都市に住む人々の日常的な声こそが大災害に対抗する唯一の手段なのだと言う構造である。ここには重大なパラドックスが含まれていることがお分かりいただけると思う。来場者特典には次のようにある。

『君の名は。』のときは、夢を媒介にして触れていくことしか出来なかったんです。でも、今なら直に触れることができるんじゃないか、直に触れるべきなんじゃないかという気持ちが強くなっていった。あるいは、これ以上、そこに触れるのが遅くなってはいけないという気持ちもどこかにありました。今回のキャストの何人かは、震災の記憶がほぼない世代でもあるんです。観客の中にも、この映画を見ても震災を連想しない人が1/3から半分くらいはいるんじゃないでしょうか。だからこそ、今のうちにこの映画を作らないといけないという思いはありました。

『新海誠本』(2022、東宝株式会社・STORY inc.)p,10

 ここには、新海の問題意識を明瞭に見て取ることができる。大災害に対抗する唯一の手段であるはずの”都市に住む人々の日常的な声”は、まさにその大災害によって簡単に失われてしまう脆くも儚いものである。一方で、震災から十年以上たち、この脆さ・儚さの感覚からリアリティが失われつつある、薄れてきている、弱まってきていると言う肌感覚があるのだろう。それこそが、新海が本作においてより直接的な表現を選んだ要因であると思う。地震、東北、3.11というキーワードによって暴力的なまでのリアリティを確保することで、脆く儚い逆説を成立させようとしているのである。


すずめのすずめによるすずめのための物語

 話を戻そう。本作の特徴の一つは、草太において主体的な決定の機会がほとんどなかったということである。これは、『君の名は。』を三葉の物語として捉えなおす、『天気の子』を陽菜の物語として捉えなおす、そういった試みを本作に持ち込むことを困難にする。草太は他律的に与えられた家業という役目をただ遂行し、目の前に起こる問題、すなわち後ろ戸が開いてしまったという事態に対症療法的に対応するだけである。彼は三葉や陽菜と違い、世界の形を決定的に変えてしまうような物語を展開する余地がないのである。したがって、本作は本質的にすずめのすずめによるすずめのための物語である。三葉や陽菜がヒロインでありかつもう一人の主人公という性格を大いに有していたのに対して、草太にもう一人の主人公としての性格を見出すのは難しい。大切な人を喪失し、それを取り戻すために奔走するというメインシナリオは、それ単体で成立するものではある。しかし、前二作においては、喪失され取り戻される側にそれを裏から支える物語が張り付いていることで、物語としての厚みが生まれていたのだ。だとすれば、本作は薄っぺらいストーリーということになろうか?

 一面的に言えばその通りだということになろう。だが、それで済ませてはあんまりである。本作は、この薄さに関する問題を”大切な人”を二人用意することで解決しているとみるべきであろうと思う。すなわち、すずめが草太という大切な存在を喪失し、取り戻す物語というメインシナリオがある。それとは別に、すずめが震災による母の死という事態を十年越しに乗り越える物語という軸がある。この二つの軸を結びつけるためのアイデアが、草太が母の形見である椅子の姿に変えられてしまうという構造である。母の形見の姿に草太を変えることで、草太を助ける話と母の死を乗り越える話を一つの話として語ることができるようになるのだ。

 主人公すずめは、「死ぬのは怖くない」「生きるか死ぬかなんてしょせん運」という価値観を持つ少女として描かれる。当初、これはすずめが草太の持つ閉じ師という危険な役割に首を突っ込む根拠として提示される。しかし、物語が進むにつれ、すずめのこのような価値観は震災に際して生き残った自分/死んだ母という観念が強烈に刻み付けられた結果のものであることが分かる。ここでは、新海がこだわってきた、繁栄しているように見える都市でも実態は破滅と隣り合わせなのだというテーマが、一人の少女の中に表現されている。当たり前の日常を送っているが、実はそれが死と隣り合わせなのだという事実である。普通私たちは、それを無視して日常生活を続行する。しかし、すずめにとってそのリアリティは今なお生き続けており、母の喪失という観念は自らの潜在的な死や生の無意味さとして彼女の価値観を規定しているのである。ある意味で、彼女の生は母の死以来止まってしまっていたといえよう。

 本作を貫くもう一つのシナリオは、このような少女としてのすずめが母の死を乗り越えていく成長譚である。母の死以来自分を引き取って面倒を見てくれた叔母たまきとの対立と和解を描くことは、このような観点から必須のプロセスだった。本作においては今まで以上に家族愛的な描写が多いように感じられるのはこれが理由であろう。育ての親というべきたまきとの関係を清算することは、母の死と向き合うために不可欠だったのだ。本作が全体を通して、すずめが旅を続ける中で様々な年齢層の女性たちと関わりを持っていく構成になっているのはこのような構造とも無関係ではないと思う。

 すずめは自らの死と引き換えに草太を助け出すことを選ぶ。この描写は、すずめがそれくらい草太のことを大切に思っているという描写であると同時に、それくらい自分の生を軽く見ているという描写でもある。そして物語の最後の最後に、それでも(草太と共に)「生きたい」とすずめが強く願ったときに、すずめは母の死を乗り越えたのである。この観点から見れば、本作はすずめが草太という大切な人の力を借りながら母の死を乗り越えるという物語の構造になっている。したがって、前二作においては助けられる側としてのヒロインに託されていたサブシナリオを、本作においては主人公すずめが一手に担っているといえよう。これは本作を前二作と質的に区別し、すずめのための物語になっていることを示す重要なメルクマールであるといえよう。

 このような構造は、本作における主人公が女性であることとリンクしている。主人公が男性から女性に代わっても、『君の名は。』『天気の子』から一貫して、少女の成長譚というモチーフを共有しているのだ。もしシンプルに主人公の性別を入れ替えただけだったならば、本作のサブシナリオは不思議な能力と運命を持つ草太という青年が、部外者であるすずめの力を借りて、自らの運命に立ち向かうというものになっていたはずだ。だが実際に描かれたのは、抗いがたい運命に従うことしか出来ず、柱になってすずめを待つことしか出来ない草太だったのである。その代わり、母の死との対決というすずめの物語が展開されるのだ。すなわち、これまではメインシナリオにおける助けられ役だった女の子が、主人公の座を男の子から奪取した、そういう仕組みなのである。余談だが、本作のクライマックスですずめは草太を取り戻すために常世の国へ行くことになる。だがオルフェウスしかり、イザナギしかり、冥界に愛する女性を取り戻しに行くことことを試みる男性は、その目的を果たせないのが神話の世界の定番である。常世の国へ愛する者を取り戻しに行く物語は、女性だけに許された領域なのかもしれない。


ダイジンの正体

 最後に、シナリオの構造上の謎として、なぜダイジンは柱としての役目を草太に移したのか?という点について深読み的な考察を加えてみたい。本作の前半ではダイジンは諸悪の根源であると思われていたが、後半以降はともにミミズを抑えるための重要な仲間だったことが分かる。悪意に満ちているように見えたのは気のせいだったという展開であり、これは最終局面でダイジンが再び柱としての役割を引き受け、すずめと草太がそろって生還するための犠牲者となる流れを生む。実に感動的なシーンである。だが、そもそもなぜこいつは初めに草太に呪いをかけ、柱としての役目を押し付けたのか?物語中では、草太が吐き捨てた「気まぐれは神の本質だ」というセリフで雑に説明される。もちろん、柱の役割を引き受けるのが嫌だったというだけの可能性はある。だが、それにしてはダイジンは戸締まりに対して積極的すぎるであろう。ミミズを抑え込むのはダイジンにとっても本望であったように見える。一度抜けてしまったら誰かに役目をいったん継承しなければならないというルールがあるわけでもなさそうである。東の柱こと左大臣が、自らが抜けた後また再び特に悶着を起こすでもなく柱に戻っていることからもそう推察できる。

 ここからは深読みだが、ダイジンは元々幼い子供だったのではないだろうか。草太の祖父・羊郎が左大臣に対して「お久しぶりでございます」と話しかけていたことから、羊郎と柱になる前の左大臣は面識があることが分かる。また、羊郎は草太が柱になったというすずめの報告を聞き、「何十年もかけて神になる」という説明をする。すなわち、柱はまさに人柱なのであって、閉じ師の一族は単なる後ろ戸のメンテナンス屋なのではなく、柱となるべき人材を供給する家系なのかもしれない。ダイジンはすずめに「僕のこと好き?」と何度も聞く。愛に飢えたその様は、見方によっては幼い子供のようである。柱になるという役目は、まさに本編中の草太がそうであったように、本人の主体的決定ではなく状況的な必然によって他律的に決定される。天災によって母の愛を奪われた少女としてのすずめと、柱になることを他律的に運命づけられ愛に飢えるダイジンは、このように考えると重なりあってくるのではないだろうか。だとすれば、神としての役割を十分に意識しつつも、(実際には悲しくもただの早とちりであったが)自分を好いてくれる存在としてのすずめと共に過ごすことを優先したくなってしまったダイジンの行動はかなり整合性が取れるものであるように思う。もしかしたら本作の重要なサブシナリオの一つはダイジンの神としての成長譚なのかもしれない。

おわりに

 本作は多くの謎を残して終わる。ミミズとは何か、柱とは何か、後ろ戸とは何か、閉じ師とは何か、このあたりはなんとなく雰囲気で分かってくださいと言わんばかりである。この辺りついては小説版で補完がされているのかもしれないし、いつかどこかのインタビューなどで言及されるのかもしれないが、とりあえずは謎ということで受け入れておいていいのではないかと思う。なぜ西の柱は宮崎にあったのか、3.11もミミズのせいだったならなぜ東北には柱がないのか。考えたいことは多いが、あまり深堀するのも野暮なのかもしれない。とりあえずこれだけは言えると思う。映画を見た後にその映画についてあれこれと考えをこねくり回す時間は実に幸せなものだ。いい映画とはそのような領域を開いてくれている。ましてや、感想記事を書きだしたら平気で8800字もの文量が書けてしまった映画が、悪い出来であるはずがない。『すずめの戸締まり』は、良い映画であった。




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