『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』について

 先日ドラえもんの映画最新作『のび太と空の理想郷』を観に行った。この記事では感想を書いていきたい。ネタバレを含むので、気にする人、観にいく予定がある人は観てから読むのをお勧めします。

 結論から言うと、傑作だったと思う。ほぼ満点に近い。友情、人間らしさ、多様性、自由意志、などの領域においてかなり強いメッセージ性を有しており、やや説教くさいと感じる人もいたかもしれない。三賢人やレイ博士の思想や野望もベタといえばベタである。だが、本作は王道こそ至高という創作の理想形を達成することに成功していると思う。

 本作は冒頭、タイムパトロールが謎の存在を捕縛しようと試みて取り逃すシーンから始まる。謎だけ残して、カットは学校に移る。ユートピアの話で盛り上がり、そこでなら自分もパーフェクトな小学生になれるかもしれないと期待するのび太。だが、実際に勉強も運動もダメダメである。そんなのび太が、空に浮かぶ三日月状の物体を発見して、「ドラえも〜ん」→タイトルコールである。この流れはつかみとしてかなり完成度が高かった。

 その後いつもの5人でユートピア探しの旅に出る一行。なんやかんやあって空に浮かぶユートピア、「パラダピア」に辿り着くことに成功する。のび太はここでなら自分もパーフェクトな小学生になれるかもしれないと期待し、しばらく滞在することを決める。ここではゲストキャラであるソーニャという猫型ロボットも登場し、一行と親交を温める。この辺りで、ソーニャは“悪者”という敵対者がいることを示す。メタ的にいえば、最序盤でTPが取り逃した存在こそパラダピアであり、悪者とはTPのことだと分かりきっているのだが、そこはまぁご愛嬌。最初のあのカットはなくても良かったので切ればよかったのに、とは思わなくも無いが、子供向けであることを考えればわかりやすい物語構成にしたいと言うのも理解できる。

 物語は、のびドラがパラダピアへ侵入してきた賞金稼ぎ・マリンバの手から三賢人を守るシーンから展開し始める。褒められて気持ちよくなっていたのび太だったが、パラダピアでの同級生ハンナとマリンバから事情を説明されると状況が一変する。パラダピアでは誰もがパーフェクトになれると説明されていたが、それは嘘であり、実際は三賢人の言いなりになるだけなのだった。しかし、ここでのび太はその話を嘘だと断じ、三賢人様はいい人だと主張する。あまりのび太らしく無い行動だが、彼がパーフェクトになれるということに賭けていた期待の大きさがそうさせたといえよう。そのあたり、ダメなのび太という描写から、パーフェクトへの憧れという展開を上手く描写していたので、フリが効いていて良かった。

 結局のび太は、ジャイアンやスネ夫、しずかちゃんまでもが心を失ってしまっているのを観て、事態の異常性を確信するに至る。ちなみにこの時、ドラえもんはロボットだから洗脳が効かない、のび太は特殊な体質で洗脳が効かない、という設定なのだが、これはのび太に特殊な才能があるという意味なってしまわないか私は観ていて少し心配であった。が、後述するように杞憂であった。

 結局、のびドラマリンバは3人でパラダピアからの脱出を画策する。が、それを止めようとするソーニャに追いつかれてしまう。ここで、ドラえもんはソーニャを説得しようと試みる。僕たち友達じゃないか、見逃してくれ、と。ここに本作の基本線がある。友情、特にドラえもんとソーニャの友情である。ソーニャは揺らぐが、結局三賢人に逆らうことはできずドラえもんたちは捉えられてしまう。

 パラダピアの洗脳が効かないのび太というイレギュラーの存在は三賢人にとっても想定外であったが、むしろ貴重なサンプルが手に入ったとして喜んでいた。三賢人はのび太を研究することで洗脳光線のさらなる改良に成功し、ついにのび太を洗脳することに成功する。しかし、のび太にドラえもんを撃たせることはできなかった。結局業を煮やしてソーニャにドラえもんを撃たせるのだが、撃たれたドラえもんを見てのび太の洗脳が解ける。三賢人は今度はジャイアンスネ夫しずかに命じてのび太を撃たせようとするのだが、今度は三人の洗脳が解ける。ここで先ほどの私の心配が杞憂だったことが示された。すなわち、のび太は洗脳が効きにくいだけで改良版を食らったら効いてしまうし、のび太でなくても本当に大切な友人のためなら他の人も洗脳を解除できると示されたからである。

 撃たれてパラダピアから落ちてしまったドラえもんがどう戦列に復帰するのかについては面倒臭いので全ては語らないが、ここでは若干のタイムリープ要素が仕込まれており小気味良かった。魔界大冒険くらいの感じですかね。結局三賢人(の中の人である博士)はパラダピアの放棄を決め、全ての機能を止められた理想郷は地上へと落下し始める。ドラ一行とソーニャは協力して落下を食い止めることに成功するが、冷却システムを失ったパラダピアはもはや巨大な爆弾と化していた。すると、ソーニャは自分一人でこれを空高く運び、地上に影響が出ないところで爆破させると主張する。みんなは反対するが、ソーニャはドラ一行ケコプターを次々に撃ち落とし残るはドラえもんだけになる(みんなパラシュートもってたので落としても死なないことをもちろんソーニャは知っている)。ドラえもんは友達を置いて自分だけ逃げることはできないと言って残ろうとするが、ソーニャは友達になれて良かった的なことを言ってドラえもんも撃ち落とす。一人になったソーニャは熱暴走したパラダピアと共に空高く飛んでいき、爆発の中に姿を消すのであった。

 さて、ここで終われば良かったのだが流石にそれではドラえもんらしくなすぎるというものであろう。結局ドラ一行は偶然にも生き残っていたソーニャのメインメモリを回収することに成功し、直せるということになって物語は終わる。これをご都合主義だと断じるのは簡単だが、私はここに意味を見出したい。
 
 パラダピアから脱出しようとするドラえもんを捕まえようとするソーニャは、自分はロボットで、三賢人に仕えるのが使命だから、その命令に背くことはできないと言う。それに対しドラえもんは、僕たち猫型ロボットは人間の言うことに従うためにではなく人間と友達になるために作られたんだ、そのために僕たちには心がある、と言いかえす。このやりとりは重要である。ここでいう心があるという状態は、誰かの命令に服従していない状態として言及されている。それは、一面においては人間とロボットの対比であるし、もう一面では、三賢人の言いなりになっている者とそうでは無い者の対比である。ドラえもんは、ソーニャには心があるから三賢人の言うことに従わないで友人である僕のことを信じろと述べたのだ。そしてドラえもんは、この特性を自分たちが猫型ロボットであることに根拠づけている。すなわち、我々は誰かの命令に従うだけのロボットでは無い、人間と友達になる、人間側に立っているロボットだと主張しているのである。この主張は、あまりにも人間味にあふれるドラえもんのキャラクターや、魅力あふれるソーニャのキャラクターによって視聴者にも素直に受け止められる。ドラえもんとソーニャの間にある友情も、まさにこのような心と心の繋がり、人間的友情として描かれることになる。

 であるこそ、最後のカットでメモリだけになったソーニャをソーニャであると受け入れる展開には大いに意味がある。我々はドラえもんを見る時に、彼がロボットであるという事実を半ば忘却している。本作が序盤からずっと示してきたのも、猫型ロボットに宿る人間性であった。だからこそ、最後の最後であまりに露骨な機械としての側面を打ち出して終わったのはある意味で衝撃的である。色々と心の問題について論じたけど、誰かに従うのではない自由や友情について語ったけど、結局ソーニャはロボットなのだ。そしてそれは同じ猫型ロボットであるドラえもんも同様である。本作最後のカットを見て、メモリだけになったドラえもんをみてのび太がドラえもん…と呟くシーンを幻視したのは私だけでは無いと思う。

 もっとも、これは結局ロボットはロボットなのだということを示しているのでは無いだろう。ドラえもんやソーニャに宿る心は本物だと思う。だとすれば、最後に念押しするようにソーニャは機械であるという事実を強調したのは、心は人間だけのものでは無いということを意味しているのでは無いだろうか。偶然かもしれないが、最近のチャットAIの発展を想起せずにはいられない。

 本作では心について、誰の意思にも服従することの無いという意味での自由と同一視している。他者の恣意的命令に服従しないで良い、という状態は、自由という概念の古典的な定義の一つであり、消極的自由と言われる考え方だ。一方、のび太らが求めた“パーフェクト”は、望むことをなんでも行うことができる能力としての自由という概念に接近する。これは自由主義論の文脈では積極的自由と呼ばれるものだ。後者の自由観を全体主義の根源であるとして攻撃するのは政治思想史上よく見られる言説であり、いわゆるディストピア小説と相互に多大な影響を与え合ってきた。そういう意味では、本作の元になっているトマスモアのユートピアとも一定の思想的連関が見られる。もっとも、どちらかといえば『1984年』のほうが近い気もするけど。本作の特徴は、このような自由主義思想史上の問題を、人間らしい心や友情の問題として置き換えたのが上手い設定の仕方だったというべきだと思う。

 心、友情、自由、人間らしさ。本作は重要なメッセージ性を含みつつ、物語の展開も刺激的で、考察のしがいもあり、素晴らしい出来であった。

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