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僕が「東京銭湯 - TOKYO SENTO -」を始めた理由【前半】

はじめに

東京銭湯 - TOKYO SENTO -」(以下「東京銭湯」)の一連の活動は2015年4月から始まり、2019年7月時点で5年目に突入しています。今でこそ「株式会社東京銭湯」という法人格もあり、メディア事業をはじめ「喜楽湯」での店舗事業や「東京銭湯ふ動産」の不動産サービスや、様々な広告事業やクリエイティブ事業などがある状況ですが、当初からただの若年層の銭湯ファンコミュニティによって運営されています。

もちろん僕もただの銭湯ファンであり、仕事の打ち合わせ後はお客様の会社に近い銭湯を探しては入浴して帰るというようなかたちで銭湯を楽しんでいました。「東京銭湯」内では「喜楽湯」番頭であるユースケと一番付き合いが古く、「東京銭湯」を始める前から「そのうち銭湯経営が一緒に出来ると面白いね」などと妄想をしながら飲んでいた記憶があります。(まさか本当に実現するとは!)

メディア「東京銭湯」をやり始めた当初は事業と呼べるほどのものではなく、運営資金も皆無だったので初年度は僕個人としては地獄のような日々でしたが(稼働はキツかったけどもちろん楽しかったですが)、メンバーのみんなと協力し合い、各事業でささやかながら運営費がまかなえ始め、僕の手が空く環境に少しづつなってきたこのタイミングで、今までの読者やメンバーの皆さんに「東京銭湯」の活動を一度おさらいしてもらえるように、途中から知っていただいた読者やメンバー・今から「東京銭湯」を知ってもらう皆さんに対して、今まで「東京銭湯」のみんなでやってきた活動内容を伝えたく、今後少しづつnoteに綴らせていただくことにしました。

僕は銭湯好きのただのデザイナー

「東京銭湯」について語る前にまず少し僕の自己紹介をさせてください。
現在「Tokyosento Inc.(株式会社東京銭湯)」の代表をしながら「DSCL Inc.(株式会社デスケル)」という会社でも取締役としてデザインの仕事をしています。

僕はアート好きの両親の影響や、母親が子供向けに開いていた絵画教室に通っていたこともあり、昔から絵を描き、物を作ることに慣れていて、大学も美大に進学し、デザイン会社に就職し、30歳までにフリーランスのデザイナーをやったり、ロボットのイラストを描いたりクラブでVJをやったり、Superposition Inc.(既に廃業)というデザイン会社をやったりとずっとクリエイティブに触れながら生きてきました。

 Superposition Inc.のサイトのworks

ウェブデザインや玩具のパッケージデザイン、広告のデザインなど様々なデザインやブランディングの携わって来ましたが、僕が仕事としてデザインをやり始めた10年前は、世相的に「新しいものを生み出すコト」や「今までにない企画を生み出すコト」が昔より難しいタイミングで(みんな目指してるんだけど難しい…!)、企画提案やデザイン提案は過去の焼き回しを永遠にしていくように感じていた時期で、既存の企業や既存の媒体で、この先数十年も同じような仕事をしていくのが果たして自分の価値なのか、と悩む時期が20代半ばの頃にありました。

そもそもこのご時世、デザイン会社もデザイナーもたくさんいて、日々似た職能同士で日々似た企画提案やデザインを、クライアントとの関係値や金額に応じて交代で回しているような感覚があり、ある程度スキルやセンスがあれば「僕がやる必要はどれくらいあるのだろうか?」「僕がやってもやらなくても一緒じゃないか?」という仕事の状況にモヤモヤしていました。

そんな状況で、生活していてもなんとなく経済に頭打ちを感じ始め、閉塞感がありこのイノベーションが起こりにくい時代において、既存の経済構造の重要な位置にあるクライアントばかりではなく、「もっとデザインが必要とされている業界があるのでは?」「もっと変化が起こった方が面白い業界があるのではないか?」何か自分なりのアクションをして、それが社会貢献につながり、世の中にとって新しい変革をデザインがきっかけとなって出来ることはないか、と考えていました。

そんな想いが「東京銭湯」を生み出すきっかけとなり、僕の活動は今日まで続いて来ました。

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