からだ手帖 10月
軽さの正体
職場に新しい職員がくると、必ず介助技術指導をする。
中でも、寝返り起き上がりから座ってもらって、立ち上がり車椅子に移る、あるいは2人の介助で移って頂く場面については、我々理学療法士の役目になっている。
そこで毎回感じるのが、同僚A先生の起き上がり介助の軽さだ。利用者役で私は毎回起こしてもらうが、私の首肩に入った腕も、起き上がりの要の骨盤を押す手も、全くと言って良いほど圧迫感や硬い当たりは、無い。そして、起きようとこちらが動きを合わせる間もなく、ふわりと体は起きて、座ってしまっている。
手順は決まっているし、自分も、指導される職員にも、利用者のどこに手を触れ、自分はどこに立つのかは明確に分かる。分かるようにA先生は繰り返し手を添えて新入職員と一緒に動く。力で起こす、と考えていた職員はその感覚に戸惑うが、だいたい10分ぐらいでコツを掴む。ある職員は、「合気道みたいな感じですね。」と言っていた。
そーなんですよー、と言いながら、内心私は冷や汗をかいている。
わかんねえ。理屈も動きも分かるけど、この感覚が。何で毎回こんなに軽い?
自分が介助する際は、どうしても頭肩あるいはその背中を「押し上げる」感じになってしまう。骨盤を押しても上体がついてこない感じがするからだ。実際利用者は麻痺や反射反応の障害があるから、麻痺のない私らみたいにすんなりいかないことはある。あるんだが。
実際後で、A先生に利用者役をしてもらい、私が介助してみたが、「できてますよ」といわれる。その時は確かに軽かったし、ぐいっともせずできたが、こうすりゃいいのね!みたいな、道筋や手応えは得られなかった。
村岡俊也氏による、「穏やかなゴースト 画家・中薗孔二を追って」の中に、中園が頼まれて岩場を登っていく様子をみた時の友人の感想がある。「中園が自身の身体能力を信頼していると分かった。」
それを自信と呼ぶのか、自在と呼ぶのか。
ともかく、私が欲してやまないものはそれである、と言える。A先生の起き上がり介助、その移乗動作介助の手のあたりとその動きに感じる、これは大丈夫、出来ると体が信じている感覚。その時、頭と身体は一致していて、ズレはない。
信頼とは、常に同じであることに安心することではない。常に同じでなくても、今この相手と自分にアクセス、チューニングして、今ここでできることが何か、言葉でなく身体で「そうなる」こと。そうする、と言うと何か意図的に持っていく感じがしてイヤなのだが、実際その瞬間に自分の意図、脳による操作は入っていない気がする。
私にはそれが無い、そんな感じは。
別の何かではあるのかもしれないが、常にズレあるいは揺れを感じる。
いつも同じでは無いと言い聞かせても、やはり毎回感じる、いつ何時でも、この軽さ、圧迫感もブレもないこの手のあたり。そのようなものが、自分にできている感覚が無い。そのくせ、人がその感覚をつかむ瞬間は見えたりする。利用者や他のスタッフに教えた時、ピンと来た、ような佇まいと共に、その動きが滑らかに、川の水のように、いかにもそのように流れていく。彼ら彼女らの正解、その時の正解に「成った」ように見える。
私は感覚過敏であると同時に、強く感覚を求める傾向はある。自分の輪郭を強く求めるが故に、指先同士でついてるような、あるいは石が積み上がっていくその無駄な力みもぐらつきもない感覚を、わざと壊してしまうのかもしれない。
自身の身体への信頼を、できては壊している?
それでは、いつまでたってもA先生のように「軽い」滑らかな介助ができないじゃないか。
遮るものが何も無い感じを、A先生の介助の「軽さ」だとするなら、それを強く感じることはできない。なのに、私は「上手くできてる?(疑問形)」と問いながら手を当て、それに対する物理的手応えを求めてしまうのだろう。それは「身体への信頼」ではないと、私の身体は気づき、壊すのだ。
ただ今日も、利用者と介助者がともに、スッと起きれたなあ、と一瞬感じる間もなく、次のことへ迎えている。それが「自在」であった、と後で気づくぐらいの、執着のなさ。それが、A先生の手の「軽さ」なのかもしれない。