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「厭離穢土、欣求浄𡈽」~徳川家康の平和思想の根源~

 NHK大河ドラマ「どうする家康」を毎週楽しみに視聴している。ドラマ等に描かれる徳川軍の旗印には、「厭離穢土、欣求浄𡈽(おんりえど、ごんぐじょうど)」という八文字が書かれている。家康がこの八文字を自身の座右の銘として旗印にも用いたきっかけは、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いにある。
 

 岡崎市の大樹寺は、松平4代親忠(家康は9代にあたる)が文明7年(1475)に創建した浄土宗の寺院で、松平家・徳川将軍家の菩提寺である。家康19歳の時(当時は松平元康と名乗っていたがここでは家康と表記する)、今川義元の尾張侵攻の先陣を務め大高城に居たのだが、後方の桶狭間で今川義元が織田信長に討たれ、世にいう「桶狭間の戦い」で戦況は一変した。進退窮まった家康は先祖代々の菩提寺である大樹寺へ逃げ込むが、もはやここまでと先祖の墓前で自害することを決意する。その時、大樹寺の13代住職登誉上人は、「己の欲のために国を挙げて争うことは奸盜の武、世の平和のために兵を交えることが菩薩の慈となる」と説き、「厭離穢土、欣求浄𡈽(おんりえど、ごんぐじょうど)」という言葉を家康に贈って、家康の自害を思いとどまらせたという。厭離穢土とは、苦悩多い穢 (けが) れたこの世(穢土)を厭 (いと) い離れたいと願うこと、欣求浄𡈽とは、浄土(仏の世界)を心から喜んで願い求めることを意味する。この言葉は、平安時代中期に天台宗の僧である源信(恵心僧都)がまとめた仏教書『往生要集』に記されている。登誉上人は、戦国の世は、武士が自分の欲のために戦っているせいで、国土が穢れていることを憂い、苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を欣(ねが)い求め、それを成すべく戦国乱世を住みよい浄土にするのが家康の役目である、と諭した。それ以来、「厭離穢土、欣求浄𡈽」は、家康にとって終生の座右の銘となり、その言葉の通り、戦乱に終止符を打った家康は、「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」と言い遺し生涯を終えた。なお、旗印の「欣求浄土」の「土」の文字に点が付いて「𡈽」となっているのは、登誉上人が家康公にこの言葉を授けるときに「穢土」ではなく「浄土」を目指せと強調したものだと伝えられている。
 

 静岡の久能山東照宮を訪れたことがある。久能山東照宮は家康の遺言によりご遺体が安置された神聖な場所である。日光東照宮の拝殿に「見ざる言わざる聞かざる」の彫刻が施されているのは有名だが、久能山東照宮の拝殿には「司馬温公の甕割り」の彫刻がある。これは昔の中国(北宋)の政治家、司馬温公(司馬光ともいう)の子どものころの話である。大きくてとても高価な水瓶があった。そのあたりで友達と遊んでいたところ、友達の一人がその水瓶の中に落ちて、今にもおぼれそうになってしまった。そこで温公は、友達を助けるために、父親からしかられるのを覚悟して石で瓶を割ったのだ。その結果、友達の命は救われた。温公は父親のもとに行き、水瓶を割ったことを謝罪するのだが、それを聞いた父親は、しかるどころか温公をほめたたえ、改めて命はどのような高価なものよりも大切だということを教えたといものだ。徳川家康は、この故事から「命の尊さ」を伝えるべく、久能山東照宮の拝殿の蟇股(かえるまた)に「司馬温公の甕割り」を彫らせたのだろう。

 愛知県の寺院の数が全国でダントツの1位であることはあまり知られていない。その理由は、家康と尾張徳川家が仏教を庇護したこと、尾張三河が京と江戸を結ぶ交通の要衝であり、仏教思想が民衆に広まりやすい風土にあったことが関係していると想像される。家康は、天下を統一した秀吉により「江戸」に移封された。その際、当然同じ読みの「穢土」を想起したはずだが、あえて「江戸(穢土)」の地名をそのまま残し、そこに自らの手で「浄土」を築こうというビジョンがあったのではないだろうか。家康が徳川家の旗印とした「厭離穢土 欣求浄土」という仏教思想は、すべての人権擁護ならびに、平和希求の取り組みに通ずるものがある。


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