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鑑真和上と唐招提寺 

 『天平の甍てんぴょうのいらか』は、井上靖原作の歴史小説だ。この作品は、1980年に映画化され、中学校の予餞会で映画館にて観た記憶がある。私自身が鑑真和上や唐招提寺を知った記念すべき作品だ。先日の奈良への家族旅行でその唐招提寺を初めて訪問することができた。
 唐招提寺の美しさは甍、つまり屋根瓦にある。金堂と講堂の屋根瓦の両端には鴟尾しびがある。鴟尾とは、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種であり、唐招提寺の鴟尾はことさら美しい。

 鑑真和上は唐の揚州に生まれ、長安、洛陽に学び、戒律の師僧として名高い大徳であった。天平5(733)年、唐に渡った日本僧、栄、普照が和上のもとで伝戒の師として渡日を願った際も、鑑真和上みずからが来て下さるとはとは予想していなかったという。しかし、鑑真和上は弟子たちの前でご自身が日本に渡航する決意を披瀝され、鑑真和上の高弟たちも和上に従うこととなったのだ。

 その後の度重なる渡海の失敗と辛苦は壮絶なものだった。海難により和上はその愛弟子祥彦をうしない、6度目の渡航に成功して天平勝宝5(753)年に薩摩にようやくたどり着いたときには鑑真は失明していた。日本への渡航を志してから12年目、弟子の死や失明という艱難に遭いながらも、ようやく念願の渡日が果たせたのである。

 かくて、和上は、東大寺大仏殿前において、聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇以下 400余人に戒を授け、授戒伝律のことはひとえに和上にまかされ、日本仏教界の戒律のみだれが正されることとなった。(ちなみに、戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには10人以上の正式の僧尼の前で儀式(=授戒)を行う必要がある。)
 
 鑑真和上の来日は、いわば日本仏教界の襟を正すものであったと同時に、唐から持参された舎利、経論のほか、仏画、仏像なども数多く、唐の文物が直接わが国に伝えられたのだ。鑑真和上のひらいた唐招提寺は、わが国はじめての「律」であり、宗の総本山として今日に及んでいる。天平宝字7(763)年5月6日、76才(一説には77才ともいわれる)で鑑真和上は示寂された。これに先立って、弟子の僧忍基は、ある夜、講堂の梁が折れ、くだけるさまを夢にみて、鑑真和上の遷化のときがっていることを悟り、いそいで御像を造らせたという。
 
 鑑真和上像は、瞑目して、禅定印ぜんじょういんをむすんでおられる。両眼の明を失なった和上の側影だからこそ、瞑目しておられるのはあたりまえかも知れないが、これはまた和上遷化の際のお姿だとも伝えられている。それにしても、鑑真和上の五体はまことに頑丈である。意外なほどに骨太く、鑑真和上の不撓不屈の精神は、この五体にして可能であったのだろう。

 後年、松尾芭蕉、北原白秋、会津八一が鑑真和上に関する俳句と短歌を詠んでいる

若葉して おん目のしずく ぬぐはばや         松尾芭蕉

水楢みずならの やは嫩葉わかばは み眼にして 
         花よりもなほや 白う匂はむ     北原白秋

おほてらの まろきはしらの つきかげを
                つちにふみつつ ものをこそおもへ
                           会津八一


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