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戊辰戦争の真実

 戊辰戦争から155年が経つ。

 以前、私が学んだ戊辰戦争においては、今も会津に渦巻く戊辰戦争での新政府軍に対する150年前の怨念が感じられた。江戸時代から明治に変わる戦争:戊辰戦争における会津若松鶴ヶ城攻防戦、いわゆる「会津戦争」の際、会津側の降伏で戦闘が終わった後、新政府軍は、会津藩兵の遺体の埋葬を禁じたと言い伝えられてきた。会津藩では約1か月の籠城戦などで約3000人が亡くなった。その会津の人たちが長州の人に抱く怨念の最大の要因は、新政府軍が会津の死者たちを「埋葬禁止」にし、長期間にわたって野ざらしにされたというものだった。

 この埋葬禁止説が広がったのは昭和30年ごろの話だという。郷土史を研究する地元団体の冊子に新政府軍が会津藩士の遺体の埋葬を禁じたことが記された。昭和50年代になると『戊辰殉難追悼録』に会津若松市長が寄せたいあいさつ文に「埋葬を長期間許さずして、その屍を辱めた」と書いた。その後、埋葬禁止説は半世紀も伝えられ、「周知の事実」として知られるようになった。国民が信じた背景としては、昭和40年代以降、会津藩の正当性や悲劇を訴える小説やテレビドラマなどが発表され、会津の悲惨さや新政府軍の残虐さを強調する上で、埋葬禁止説が浸透していったようだ。確かに、私が大好きな内田康夫氏の作品『風葬の城』の小説、漫画本、テレビドラマにおいても、長期間遺体が放置された様子を「まるで風葬みたいだ」と表現される場面があった。しかしながら、研究者によると、昭和30年以前は「埋葬禁止説」そのものがなかったと言う。

  2016年、戊辰戦争で戦死した会津藩士のうち少なくとも567人が、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が福島県会津若松市で見つかった。これまでは新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたものの、史料には埋葬の場所や経費などが詳細に記されいる。会津藩で要職を務めた藤沢内蔵丞の御子孫が、1981年に若松城天守閣博物館へ寄贈した史料174点の一つ。会津市史史料目録の編さん準備をしていた時に発見されたという。史料には、1868年9月22日の会津藩降伏後、城下を統治していた民政局(越前、加賀、新発田藩など)から命じられた会津藩士4人が、人を使って、10月3~17日に567人の遺体を64カ所に埋葬したことが、34ページにわたって記録されている。文書には遺体の氏名や状況、服装なども書かれており、NHK大河ドラマ『八重の桜』にも描かれた山本覚馬・八重兄妹の父親で、会津戦争で戦死した山本権八に関して、埋葬者の中に「山本権八先生と覚しき人有」との記述もあったという。ほかにも家紋の図など遺体発見当時の服装が詳細に記され、女性や子どもの遺体もあった。一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と思われる遺骨の記述もある。

 これまで、会津では「遺体は埋葬を禁じられ、長期間放置されていた」との説が浸透し、長州藩など新政府軍の非道ぶりを象徴するものとされていた。仮に、旧会津藩士の遺体の埋葬が進まなかった原因があったとすれば、このあと積雪や一揆の発生といった障害が発生し、埋葬が遅れたこともあったのかもしれない。一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為
ス可カラズ」との官命が新政府軍側に下っていたという。もしこれを事実とするならば、これは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認するまでの一時的な措置だったと考えた方が良いのかもしれない。

 歴史の真実は非常に難しい。NHK大河ドラマが大好きな私は、『真田丸』では豊臣方に、『どうする家康』では徳川方にシンパシーを感じてしまうから困ったものだ。

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