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「どうする家康」の舞台を訪ねて~三河一向一揆の舞台 本證寺へ~

 昨日、妻と一緒に、NHK大河ドラマ「どうする家康」で三河一向一揆の舞台となった本證寺を訪問した。昨日の最高気温は35度を超え、かなりの暑さだったが、楽しく新しい学びの機会となった。

 本證寺は浄土真宗の寺院で13世紀末頃(鎌倉時代後期)に慶円によって開かれた。15世紀後半には、本願寺の蓮如による教化で本願寺門徒(一向宗)に転じ、このころから三河地方の本願寺門徒における寺院の組織化が進み、岡崎の上宮寺、勝鬘寺とともに三河三か寺と称されそれぞれが100か寺以上の末寺を抱える一大勢力となっていた。16世紀になると二重の堀と土塁が築かれ、城郭寺院と呼ばれるようになる。


2015年3月10日に国の史跡に指定

 桶狭間の戦いの後、岡崎城に入った徳川家康は今川氏と手を切り、三河の平定に乗り出す。しかしながら、家康の前に立ちはだかったのは、今川氏に従う三河の国衆だけではなかった。大規模な一向一揆が勃発したのである。この一揆の原因は、家康の家臣が謀反人の捕縛を理由として本證寺に入ったことで、守護使不入の特権を侵害されたことによるとされている。三河三か寺は、戦国武将と並ぶ大きな勢力をもち、守護使不入という特権が与えられていた。これは守護の役人が徴税や謀反人の追補のために寺領に入ることを禁止する特権であり、本證寺も本證寺城とも呼ぶべき、独立城郭都市になっていたのである。つまり、三河一向一揆は単なる宗教戦争ではなく、既得権益を守ろうとする本願寺派と徳川家康の政治闘争であったのだ。

 三河一向一揆には、一揆側に家康の家臣も門徒として参加している。家康の家臣の一向宗門徒のうち、石川数正、本田忠勝らは浄土宗に改宗し、家康に味方したが、本田正信、渡辺守綱、蜂屋貞次らのように浄土真宗からの改修を拒み、一向一揆に味方した家臣もいた。家康は、この戦いで辛くも勝利をおさめ、一向一揆側を代表して蜂屋貞次らが家康に和睦を求めてきた。条件は、一揆参加者の赦免と守護使不入特権の継続だった。一揆側の条件をいったん飲み、和睦した家康だったが、その条件として改宗を迫る。そして、改宗に応じなかったとして、国内のすべての本願寺派の寺院や道場を破却し、浄土真宗本願寺派の信仰を禁止した。まだ若かった家康には苦渋の決断だったと想像できる。

 現地の歴史ガイドの方の話によると、それから約20年が経ったころ、家康の伯母(母:於大の方の姉)石川妙春尼の説得もあり、家康は本證寺の一揆の罪を赦免し、本證寺の道場屋敷の保証と、寺に属した「家来三十間」(外堀に囲まれた寺内の住人)の租税免除を認めている。

 本證寺…初めて訪れたがとても素敵な寺院であった。内堀に咲く蓮の花、鼓楼や土塁、現地ガイドさんによる案内、どれも新鮮な学びとなった。
(参考文献:「安城市観光協会 家康公 天下への始まりの地 安城」
「安城市教育委員会 歴史の散歩道「どうする家康」特別版」
「安城市教育委員会 歴史の散歩道「三河一向一揆の舞台 本證寺を歩く」」)

内堀と鼓楼
土塁
鐘楼と経蔵

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