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どんぐりころころと戦争

どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまって さあたいへん
どじょうがでてきて こんにちは 坊っちゃん一緒に 遊びましょう

どんぐりころころ よろこんで しばらく一緒に 遊んだが
やっぱりお山が 恋しいと 泣いてはどじょうを 困らせた

 だれもが一度は歌ったことのある懐かしい童謡『どんぐりころころ』。「どんぶりこ」の部分を間違えて「どんぐりこ」と歌ってしまったのはきっと私だけではないと思う。
 『どんぐりころころ』は作詞:青木存義(ながよし)作曲:梁田貞(やなだただし)により、大正時代につくられた童謡だ。歌詞の内容は、青木の幼少時の体験が元になっているそうだ。青木は宮城県松島町の大地主のいわゆる「坊ちゃん」として生まれ育った。青木家の広大な屋敷の庭には「どんぐり」が実るナラの木があり、その横には大きな「池」があった。青木は朝寝坊な子どもであり、それを改善したいと母親が知恵を絞り、庭の池に「どじょう」を放した。どじょうが気になって、青木が朝早く起きるようになるのではないかと考えてのことであった。本作品は、当時の思い出を元に制作されたと言われる。

どんぐりころころ 泣いてたら 仲良しこりすが とんできて
落ち葉にくるんで おんぶして 急いでお山に 連れてった

 『どんぐりころころ』作曲家の岩河三郎が1986年(昭和61年)に3部合唱曲用に本作品を編曲した際に付け足したものである。NHKの取材に応じた岩河は「童謡はお母さんの愛情を感じさせる音楽だと思います。母の愛情を表現するために、3番を作りました」と付け足した理由を語っている。3番で重要な役目を果たすリスは歌詞に「お母さん的愛情をプラス」させるために登場させたのだという。

 なんと桂文枝さんが三枝時代に、4番から6番を作っていたことを知った。

どんぐりころころ 帰ったら  仲間がみんな ひろわれて
お話あいてが いなくなり どじょうに会いに ころがった

どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまって さあたいへん
どじょうがでてきて 久しぶり ぼっちゃん一緒に また遊ぼ

どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまって さあたいへん
どじょうがでてきて また来たか ぼっちゃん 勝手に 遊んどき!!

 コマにしたりして、子どもたちのおもちゃでもあったどんぐり。太平洋戦争で追い込まれた日本政府は、「少国民諸君、山や野に転がっているどんぐりも兵隊さんの弾丸と同様に大切です。弾丸のつもりで一つでも多く拾い集めてください。」と子どもたちに要請した。子どもの動員は、1940年に農林省や文部省が自治体や学校に協力要請を通達したことに始まる。中国や東南アジアに侵攻する日本に対し、アメリカは航空機用燃料の輸出制限に踏み切った。海外から物資を買うための外貨も底をつき、日本は敵国との資源争奪競争に敗れつつあった。「どんぐりからアルコールができ、アルコールは飛行機や戦車や自動車に使うガソリンの代用になります」というチラシが渡され、子どもたちはバケツを手に、休日や放課後に日が暮れるまで知人の家や道沿いにあるカシの木の周りを探し回ったという。集められたどんぐりがどのくらい回収され、実際にどのような使われ方をしたのかを示す資料はない。

 太平洋戦争で無条件降伏をした日本政府は、終戦後も子どもたちにどんぐりを拾わせた。戦後の食糧難が深刻になったため、今度はどんぐりを食糧にすることが目的になった。学校で集められたどんぐりは工場に運ばれ、パンに加工されて給食にもなった。ミシンメーカーのJUKIは戦前は武器を製造していたが、戦後はしばらくどんぐりなどを原料とする製粉・パン製造工場を経営していたとのことだ。
 家庭では石臼でひき、粉にしたどんぐりと塩、水を混ぜてホットケーキに似たおやつも作られたそうだが、「とても苦くて食べにくかった」という証言が残っている。

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