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新美南吉の童話に流れる平和の心

 小学3年生のころだっただろうか、国語の教科書に新美南吉の「手袋を買いに」が載っていた。心が温まるステキな作品であり、感動したのを今でも覚えている。現在はたしか小学4年生の国語の教科書に新美南吉の「ごんぎつね」が載っている。きつねのごんが最後には撃たれて死んでしまう悲しいお話だ。この物語が世に出されたのは昭和7年、新美南吉が19歳のときだ。昭和5年には日本は15年戦争に突入し、「ごんぎつね」は世の中が戦争ムードへと大きく傾き始めている中で書かれた。南吉はなぜこの「ごんぎつね」の結末を悲劇にしたのだろうか。

 ごんが「ひとりぼっち」であることには、新美南吉の子ども時代の孤独感が影響していると考えられる。「ごん」は「新美南吉」の分身であったのかもしれない。そんなごんを南吉は物語の最後で殺してしまう。よりによって友達になりたいと想いを寄せていた兵十に撃たれるという悲劇的な結末だ。南吉は、5歳の時に実母と死別、父親は新しい母親と再婚するが、家庭環境は複雑で、継母とはあまりうまくいかず、一時、養子として祖母に預けられた。子ども時代は決して幸せではなかった。「ごん」に自分自身を投影し、悲劇の結末を作り上げたのだろうか。

 新美南吉の生まれた愛知県半田市の岩滑(やなべ)は、例年9月下旬になると、矢勝川の堤に沿って全長約1.5kmにわたって、地元の人々によって育てられた300万本以上の彼岸花が一斉に花をつける。一面が真っ赤な絨毯に覆われる幻想的な風景を楽しむことができる。童話「ごんぎつね」に書かれた『ひがん花が赤い布のように咲いている』との描写に1990年、大勢の地域住民も参加して彼岸花の球根を植栽したのがはじまりとのことだ。。

 南吉は昭和10年、「ひろったらっぱ」という作品を書いた。青少年将校によるクーデター「二・二六事件」の起こる9か月前のことである。軍隊のラッパ手を夢見た青年が、戦争で畑を荒らされ、うちひしがれた村人たちを見て考えを改め、人々を励ますためにラッパを吹いて、村に平和を取り戻すという内容だ。当時のラッパ手は、指揮官の指示を伝える軍人の花形の役目であり、戦時体制に向かう世の風潮に対する痛烈な批判が込められた作品である。南吉は、「ひろったらっぱ」を発表した後も、「ごんごろ鐘」や「うた時計」といった軍隊を風刺した反戦色の強い作品を遺した。

 22歳のときに喀血して、昭和18年1月はじめから床に伏した南吉は、3月になると激しい喉の痛みから、ほとんど声が出なくなってしまった。病の床で「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と絞り出すように繰り返したという。それから間もなく、南吉は29歳7ヶ月という若さで亡くなった。昭和18年と言うと、戦争が激しくなり、敗戦へと傾いていく時期だ。新美南吉の作品「ごんぎつね」「ひろったらっぱ」「手袋を買いに」が広く国民に知られるのは、戦争が終わってからのことだった。

 

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