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 紫陽花の美しい京都の藤森神社

 妻と京都へ日帰りバス旅行に行き、2つの神社を取材してきた。 

 京都でも特に歴史ある古刹である藤森神社だが、私はすっかり「ふじもり」神社だと思い込んでいた。現地を訪れて初めて「ふじのもり」神社が正式な名称であることを知った。菖蒲(しょうぶ)の節句の発祥の地としても知られ、“菖蒲”と“勝負”をかけてか、“勝ち”にゆかりの深い神社として知られるようになった。

 最初から「藤森神社」という一つの神社であったわけではなく、歴史を遡ると、神社のある深草の地の周辺にあった三つの神社が統合されて、現在の形になったという。
 現在もその名残として本殿には三つの座(中座、東座、西座)が設けられ、それぞれに神社の御祭神12柱が分かれて祀られている。

 最も古い歴史を持つのが、本殿中央部の中座。
 ここには素盞鳴命スサノヲノミコトを主神に、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の7柱が祀られている。神社に伝えられるところによると、「神功皇后が摂政3(203)年、三韓征伐を終えて新羅から凱旋した際に、纛旗とうき(軍で用いる大旗)を山城国深草の里の藤森の地に立て、兵具を納めて塚を作り、祭祀を行って神々をお祀りした」という話が、その起こりとされている。本殿の東側には注連縄の巻かれた大きなイチイの切り株があり、これが「旗塚」と伝えられている。また、こちらでは、京都に都が遷される794年に、当時の桓武天皇が遷都奉幣の儀式(無事都が遷せるよう、神に御幣を捧げる儀礼)を行われたという。

 東座(本殿東殿)には舎人親王、天武天皇の2柱が祀られている。こちらは、元々は天平時代の宝字3(759)年に、藤尾というところに建てられていた「藤尾社」という神社だった。この藤尾というのは、ちょうど現在は伏見稲荷大社がある地域を指す。室町時代の永享10(1438)年、後花園天皇の勅令により、当時の将軍:足利義教が稲荷山の山頂にあった祠を皆、山の麓にある藤尾に移動させ、祠を稲荷社として改めた。そのため、それまであった藤尾社は藤森神社へ遷されることになったのだ。面白いことに、5月に行われる「藤森祭」の際には氏子さんが神輿を担いで伏見稲荷大社の境内にある藤尾社の祠に向かうのだが、この際にも「土地返しや、土地返しや」と声をかけ、稲荷側の人々が「神さん今お留守」と返す一幕があるという。

 そしてもう一つ、早良親王、伊豫親王、井上内親王の3柱を祀る西座(本殿西殿)は、元は東山の塚本というところに鎮座していた神社だった。祭神のうちの一人、早良親王は生前、桓武天皇の即位に伴って皇太子となり、陸奥で起こった蝦夷の反乱の征討に向かう際、藤森神社に戦勝祈願に訪れていたという縁の人でもある。このことを聞いた蝦夷の軍は畏怖して戦意喪失し、結果戦わずして反乱が治まったという。しかし親王はその後謀略に巻き込まれ、淡路島に流刑される途中で無念の死を遂げる。その後飢饉や疫病が起きたり、富士山が噴火したりと災厄が相次いだため、その怨霊を鎮めるために延暦19(800)年に塚本社が建てられた。いわゆる、御霊社であり、後の2柱の神様も不幸な死に方をされたことから、後に併せて祀られたとのことだ。この神社は火災に遭い焼失したため深草に移動、その後も応仁の乱でも焼失してしまい、文明2(1470)年、藤森神社に一緒に祀られることとなる。この際、社名も「藤森神社」とされ、現在のような形になったそうだ。

 藤森神社で行われる行事の中でも特に有名なのが、毎年5月5日に行われる「藤森祭(深草祭)」だ。これも神社と同じく非常に歴史あるお祭で、東殿に祀られている舎人親王に由来する。この舎人親王は日本書紀の選者として、古くから文武両道の神として皇室をはじめ、時の権力者だった藤原一門など公家たちからも厚く信仰されていた。そのこともあり、貞観2(860)年に、藤原良房が自身の邸宅に当時の清和天皇を招き、「深草貞観の祭」を執り行った。これが藤森祭の起源になったという。
 幕末に新撰組の母体「浪士組」を作った清河八郎の日記『西遊草』には、華やかに着飾った武者行列や駈馬神事の様子、見物客が多くごったがえする様子などが活き活きと記されている。

 藤森神社には3つの特徴がある。1つ目は、「菖蒲の節句(子どもの日)発祥の神社」と言われている。藤森祭は、毎年5月5日に行われ、菖蒲の節句発祥の祭りとして知られている。2つ目は、「学問の祖神を祀る神社」と言われ、「日本書紀」の編者であり、日本最初の学者である舎人親王をご祭神としている。3つ目は、「馬の神様」と言われ、室町時代から「走り馬」という行事が行われ、その後、藤森祭の駈馬神事として受け継がれ、古来より神社と馬のかかわりが深い。手水にも馬の口から水が流れ出ている(下写真)。私たちが訪れた6月15日は、ちょうど紫陽花祭の初日で手水にも紫陽花の花があしらえてあり、紫陽花の庭を散策することもできた。

 藤森神社は「馬」に関する神社であると同時に、紫陽花あじさいの花が美しく咲くことで、紫陽花の神社としても有名である。私たちが訪れた6月15日がちょうど紫陽花まつりの初日であった。始まったばかりでそんなに大きな紫陽花はなかったが、小さく可憐に咲く紫陽花も美しい。

 私は午年うまどし、しかも丙午ひのえうま」という出生数の少ない年に生まれた。あと2年で丙午の年になるが、なぜ丙午の出生率が高くないかは、江戸で大火事を起こした八百屋お七が丙午の生まれだったからで、気の強い女性が生まれてくるという都市伝説的なものだ。ただでさえ出生率が年々減少しているのに、2年後はさらに下がるのか、それとも今の若い人が丙午のこの謂れを知らない、あるいは気にしないのか、見ものである。私が還暦を迎えるのは丙午の年である。2年後に妻と一緒に再訪したい。

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