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名古屋を海外へ導いた渋澤栄一

 日本の資本主義の父とされ、新一万円札に肖像が採用された実業家渋澤栄一(1840一1931)。その渋澤が明治末期に団長を務めた民間の米国視察団「渡米実業団」について、名古屋から参加した伊藤祐民(のちの松坂屋初代社長、1878-1940)の回顧録が見つかったそうだ。過密日程の中で、先進国アメリカから懸命に学ぼうとした伊藤祐民青年の姿がにじむ。

 まずは伊藤祐民の先祖について説明する。
 1611(慶長16)年、 伊藤家初代祐道が清須越しにて、清須より名古屋本町へ移住。織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で呉服小間物商「いとう呉服店ごふくだな」を創業する。祐道は大坂夏の陣で豊臣方について戦死し、呉服店は一旦閉店となるが、1659(万治2)年、 祐道の遺児:伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を移転再開する。
1736(元文元)年、 呉服太物小売商に業態転換し、徳川家の呉服御用達となる。1740(元文5)年、 尾張藩の呉服御用となる。明治になり、1909年(明治42)年-、伊藤産業合名会社を設立。同年8月19日、伊藤祐民が日本実業家渡米団に加わり横浜を出帆する。翌1910(明治43)年2月1日、伊藤祐民が「株式会社いとう呉服店」を設立し、名古屋栄町に百貨店を開業する。のちの松坂屋である。

 視察団は1909(明治42)年、実業家ら約50人が3カ月間、米国の主要都市を巡るものだった。祐民は当時31歳と若く、渋澤に目をかけられたという。伊藤家が所蔵する史料群から、「渡米実業団誌」と記された糸とじの冊子が見
つかった。祐民の孫に当たる松坂屋元社長の故・祐洋さんの妻きよゑさんは、達者な筆運びを見て直筆と直感した。親族の野村美術館(京都市)
理事長伊藤美乙子さんらと内容を確認してきた。

 回顧録は、道中の出来事が簡潔に記してある。面会した当時の米国の重要人物の中には発明王トーマス・エジソンの名もあった。耳が不自由だったエジソンとの会話については「通訳の苦心は非常であった」とつづられている。日露戦争に勝利したばかりで、日本の国際的地位が飛躍的に高まった時代であり、ミネアポリスで会見したウィリアム・タフト大統領については「隔意なき態度で慇懃を寄せた」と記載し、アメリカ側の歓迎ぶりが伝わる。

 伊藤祐民はシカゴの複数の百質店を視察。祐民は、松坂屋名古屋店の前身で地域初の「デパートメントストア」をうたった「いとう具服店」の新店舗建設へのヒントをたくさん得たようだ。帰国後、和風の外観だった建設計画を洋館に変えていることから、アメリカ訪問により、かなりの刺激を受けたことがわかる。

 伊藤祐民が「渡米実業団」に仲間入りできたのは渋澤栄一に目をかけられ、米国視察団への参加が実現したからであったのだが、アメリカからの招待状は、名古屋を除く東京や大阪など五大都市の財界関係者にしか届かなかったのだ。その理由は、前年にアメリカの実業家団が訪日した際、名古屋市には米国視察団を宿泊させるのにふさわしい設備のホテルがなかったため、米国視察団には名古屋駅で記念品を贈呈するだけにとどもあってしまったからだった。その時の悔しさをバネにして、祐民は後に名古屋観光ホテルの開業を主導したのだった。

 名古屋市千種区には覚王山日泰寺というお寺がある。日泰寺にったいじはかつては日暹寺にっせんじという名前であった。「泰」の文字はタイを表し、「暹」の文字はタイの旧名シャム(暹羅)を意味する。ご存知の方も多かろうが、日泰寺は日本で唯一お釈迦様(仏陀)の遺骨が納められているお寺である。伊藤祐民はこの日泰寺の隣りに「揚輝荘ようきそう」という別荘を建てている。それが縁となったのか、祐民はタイからの留学生を揚輝荘に受け入れている。

 いずれにしても、渋澤栄一の英断がなければ、名古屋の発展はここまでなかったかもしれない。

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