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「世界津波の日」:日本の実話「稲むらの火」がきっかけに!

 2004 年 12 月 26 日、インドネシアのスマトラ島沖を震源とする巨大地震が起こり、インド洋周辺各国に―そして遠くはアフリカまで―巨大津波が押し寄せた。平穏だったビーチを襲い、濁流となって街中に侵入した津波は、家屋や車を押し流し、多くの人命を奪い去った。テレビカメラで撮影された津波の映像は、世界各国を駆け巡った。おそらく、これが巨大津波の“実態”を人々に知らしめた、最初の出来事だったのではないか。しかしそれまでにも、世界のあちこちに、津波の恐ろしさを伝える“伝承”は数多く存在していた。そしてそのひとつは、和歌山の地にあった。
 2005年、当該津波災害の復興支援首脳会議に出席した小泉純一郎首相(当時)は、シンガポールのリー・シェンロン首相(当時)から、『日本では、「稲むらの火」という物語を教科書に載せて、子どもの頃から防災教育をしているそうだが、それは本当か』と問われたという。小泉首相は戦後世代なので、残念ながらこの事実を強く認識していなかったようだ。東京の文部科学省に照会した際も、誰も知らなかったということである。この際のやりとりはニュースとなって配信され、その結果、インターネット上に開設されていた「稲むらの火」のウェブサイトには、3 万件を越えるアクセスが集中したという。    
 小泉首相はその直後に神戸市で開催された第2回国連防災世界会議にて世界で使われているtsunamiが日本語であることを紹介。150年ほど前の「稲むらの火」のエピソードを紹介し、災害の知識や教訓を身につけること、災害時の迅速な判断・行動、日頃からの災害への備えの重要性を訴え、「稲むらの火」は各国の防災担当者から注目された。アジア防災センターでは「アジア地域における「稲むらの火」普及プロジェクト」として、アジア8か国で用いられることを想定したベンガル語・ヒンディー語・タミル語・ネパール語・英語・シンハラ語・タガログ語に訳したテキストを配布している

 なお、『稲むらの火』は次のようなお話である。

 江戸時代のお話。広村という小さな村に五兵衛というおじいさんが住んでいました。五兵衛さんの家は海を見下ろす小さな高台の端に建っていました。
 ある秋の夕方、五兵衛さんは微かに地面が揺れるのに気づきました。長い、のろい、ふんわりとした地震でしたので、村の人たちは何事もなかったかのように過ごしています。五兵衛さんがなんとなく海を見ると、波が沖のほうへ退いていき、海の底が現れました。
 五兵衛さんは自分のおじいさんから子どもの頃に聞いた話を思い出します。五兵衛さんはたいまつに火を着けると、田んぼにある稲むらに火を着けはじめました。
 とても大切な、米の付いた稲むらです。山寺の小僧が火に気づき早鐘を鳴らしました。この音を聞いて高台の火に気づいた村人たちは、慌てて高台に上ってきました。しかし、集まった村人たちは、何が起こったのかわかりませんでした。
 そのとき、巨大な津波がやってきて、村は瞬く間に消えてなくなってしまいました。それを知らせるために稲に火をつけたのだと気づいた人々は、五兵衛さんの前にひざまずき、深々と頭を下げました。

 この「稲むらの火」の五兵衛のモデルとなった濱口梧陵は、文政3年(1820)に広村で生まれた。12歳の時に、江戸と銚子で大きな醤油屋を営んできた濱口家の本家の養子となる。家業を継ぎ、関東と広村を行き来する生活を送っていた梧陵は、1854年11月5日、35歳の時に広村で安政南海地震に遭遇する。震源は紀伊半島四国南方沖、マグニチュードは8.4という巨大地震だった。津波が迫る中、梧陵は村を巡回し、村人に避難を呼びかけ、さらに、津波から逃げ遅れた村人が、暗闇の中で逃げる方向を見失わないように、稲むらに松明で火を放ち、安全な場所へと誘導した。この時の梧陵の活躍が、「稲むらの火」のベースとなっている。安政南海地震の津波により、広村の中心集落は浸水。当時、広村の人口は約1300人、戸数は約340戸でだったが、36名が亡くなり、家屋流出は125軒、全壊10軒、半壊46軒にのぼっている。梧陵は食料品、衣服、農機具、漁具の提供、被災者用家屋の建設などを行い、村人の生活再建を支援した。さらに、後の津波から村を守るために私財を投じて堤防を建築することを決断する。地震の翌年に建設が始まった工事には、津波によって職を失った村人も多く雇われた。これにより、村人の離散も防いだ。そして、約4年にわたる工事で、高さ5m、底幅20m、全長約600mの広村堤防が完成。堤防に沿って海側には、防潮林として松並木が植えられた。ちなみに、醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家は現在のヤマサ醤油である。

 『稲むらの火』は1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)までそのまま国語教材として採用され、掲載された。堤防の完成から88年後の昭和21(1946)年、紀伊半島沖を震源とするマグニチュード8.0の昭和南海地震が発生した。広村には高さ4mの津波が襲ったのだが、居住地区の大部分は堤防によって守られ、被害は最小限に抑えられたのだ。
 2015年12月4日、国連総会第2委員会は日本を含む142か国の提案により、この逸話のもととなった11月5日を「世界津波の日」に制定することを全会一致で決めた。


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