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新美南吉の平和への想い

 新美南吉…愛知県が生んだ最高の童話作家である。
    新美南吉が過ごした表現の自由が制限されていた時代に、南吉が味わっていたのと同じような息苦しさが今、再び感じられる気がしてならない。

 安全保障上の危機が高まっているので日本も防衛力を強化しなければならないのだろうか。敵国にある基地も攻撃できる能力を持たねばならないのだろうか。憲法9条という非戦を宣言した憲法を有する戦後の日本は様々な国から尊敬の念で見られているが、自衛隊の専守防衛が次々と骨抜きにされていくような印象を受ける。
 平和を求める声は「現実を見ていない」と頭から否定されることもしばしばだが、何があろうと知らず知らずのうちに、再び戦争の時代に戻ることがあってはならない。

 新美南吉は学生時代に『ひろったらっぱ』という反戦童話を書いている。ラッパは最前線で兵士を鼓舞する道具だった。主人公の男性は、偶然拾ったラッパを軍隊ラッパとして使い、手柄を立てようとする。しかし、戦闘で農地を踏み荒らされた農民の苦しい生活を知り、彼らを励ますためにラッパを吹くと、豊かな実りが実現するのだ。
 新美南吉はその日記の中で、自然災害や病気などの「不幸」と戦争を比べて「戦争は、人類が自分自身の中にその原因を持っている唯一の不幸だ」と表現した。愛知県半田市にある新美南吉記念館の館長によると「もちろん南吉は書きたいことも書けなくなる戦争に反発していました。一方で人間は弱い存在であり、戦争はなくならないのではとも感じていたことが、日記などから読み取れます。」と話された。「ラッパの使い道を間違えれば再び戦争への道を歩む」…南吉が作品に込めた思いを、時代を超えて読み取らねばならない。

 新美南吉の作品に『耳』という作品がある。簡単にあらすじを紹介する。

 花市君はふつうの人より大きい耳をもっていた。その耳は肉があつくて、柔かくて、赤い色をしていた。久助君は、この花市君の耳をよく触った。むろん久助君ばかりではない。村の子どもは全員、花市君の耳を触った。
ほんとうは久助君は、自分からすすんでそんなことをしたおぼえはないのだ。ただ、他の子がするから、まねて触るだけだ。
 ところが花市君は、そうされても、いままで、怒ったことが一度もない。あんまりみんなが耳を触ると、「痛いよ」といって逃げだすこともあったが、そんなときにも笑顔だった。きょうは山で、南京攻略の模擬戦をするのだそうだ。やがてこの村の全部の男の子、十八人があつまった。

 さて、参謀本部が、誰と誰を支那兵にし、誰を友軍の斥候にし、誰をタンクにするかというようなことを決めていたときのこと。待っていた他の者達が手持ぶさただったので、花市君の耳に触ろうとした。でも、「いやだよ」という、非常にはっきりした強い言葉が発せられたので、みんなはそちらを見た。花市君が、いつものようににこにこせずに、突つ立っていた。その代りに加平君がにやにやと、てれくさそうに笑っていた。そこで一同には、加平君が花市君の耳を触らうとしたこと、「いやだよ」という聞きなれない言葉は花市君の口から出たということが、わかったのだった。
 
 みんなは呆然としてしまった。これはいったいどうしたことなのか。花市君が「いやだよ」とはっきり言ったのだ。耳を触ることを拒絶したのである。そしてにこにこすることをやめたのだ。それは、わずかな間におこった、何でもないようなできごとだった。しかしこれは、みんなの心の世界では、じつに大きな事件だったのだ。
 花市君のやり方が、たいへん立派で、英雄的であることは、十七人の子供達によくわかった。あんなにきっぱりと「いやだよ」といった者が、この村の子どもたちの中に今まで一人でもいただろうか。
 古い悪い習慣をあらためるには、「いやだよ」ときっぱりはねつけるのである。新しくよい習慣をはじめようとするには、「よし、やろう」ときっぱり言って立ち上がるのである。「いやだよ」も「よしやろう」も、つまりは同じことなのだ。
 久助も、きっぱりとそういって、古い、悪いしきたりを英雄的に改めたかった。しかし、その古い悪いしきたりとは何であるかということになると、これはまた問題であつた。

 さて、次の朝、久助君はまた、通学団の集合時間におくれてしまった。いつも久助君は親戚の太一の自転車にのせていって、学校の始業時間に間にあうのであつた。久助君はこれを悪いしきたりとして改めようと自転車には乗せてもらわず学校へ走り出した。
 校門に着くと、同級生の一人が近寄ってきてこういった。「今朝な、日本は米国や英国と戦争をはじめただぞ。」
 久助君は立ちどまった。そして相手の眼をまじまじと見た。昭和十六年十二月八日の朝のことだった。

新美南吉『耳』より

 新美南吉の作品の中で、久助君という、一人の少年を主人公とした物語で、いわゆる久助ものと呼ばれる物語群の中のひとつだ。昭和16年12月8日は、太平洋戦争開戦の日。含みを持たせた終わり方をしていて、読者に想像の余地をあたえている。この物語は何を意味するのであろうか。悪いしきたりをあらためることが、その場の空気に流されて戦争に巻き込まれていくことへの反発と捉えるのは新美南吉に失礼だろうか。

 『ひろったらっぱ』も『耳』も、当時の少年たちの戦争事情がうかがわれるステキな作品だ。


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