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おんな城主直虎の平和思想

 NHK大河ドラマを毎回楽しみに観ている。現在放送中の「どうする家康」では、イケメン俳優の板垣李光人(りひと)氏が徳川四天王の一人:井伊直政を演じている。今回の話題に関係はないが、リヒトとはドイツ語で「光」という意味があるそうだ。井伊直政が出てくる大河ドラマで私が好きなのは「おんな城主 直虎」だ。
 主人公の井伊直虎は、今川家支配下の遠江国・井伊谷(いいのや)の国衆で、のちに江戸幕府の屋台骨を支える井伊家の1568年当時の当主として古文書にその名をとどめる。直虎は実は女性と伝えられる次郎法師だったという仮説のもとに描かれた大河ドラマで、のちに徳川四天王の井伊直政の育ての親として描かれている。
 
 さて、この「おんな城主 直虎」の物語が日本国憲法第9条の精神が込められていると論じた憲法学者がいらっしゃる。蟻川恒正日本大学大学院教授だ。

 「おんな城主 直虎」は、井伊直虎なる人物の一代記である。この人物が実は女性と伝えられる次郎法師だったという仮説のもとに、その数奇な生涯を、桶狭間の戦い(1560年)の前から本能寺の変(1582年)の後まで描いたこのドラマがなぞっているのは、実は、憲法9条の構造である。
 徳川家康から和睦の申し入れを受けた今川氏真が語った言葉が素敵だ。   
 「大名は蹴鞠けまりで雌雄を決すればよいと思うのじゃ。よいと思   
 わぬか。揉め事があれば、戦のかわりに蹴鞠で勝負を決するのじゃ。さす
 れば、人も死なぬ。馬も死なぬ。兵糧もいらぬ。」

 戦のかわりに蹴鞠で勝負を決するというのは、戦争のかわりに他の手段で決するということになる。氏真の発想によると「戦争は他の手段を以てする政治の継続」であり、日本国憲法9条1項の「 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」の本質を表すかのようである。

 柴咲コウが演じる井伊直虎と、高橋一生が演じる幼なじみの小野政次との会話も素晴らしい。
 「我は種子島を備えて井伊を守ろうと思うておった。だが、この先どうな 
 るかも分からぬ。そなたが我なら……何を備える?」と直虎に問われた家
 老で今川家目付役でもある小野政次は、「私なら、戦わぬみちを探りま
 す。戦いに及ばずとも済むよう死力を尽くす。周りの思惑や動きにいやら
 しく目を配り、卑怯者、臆病者よとのそしりを受けようとも断固 
 として戦いません。」
 戦わずに争いを解決するという政次の言葉は、卑怯者と呼ばれる覚悟、政略・外交の技量の必要を強調することによって、戦争をしない政治過程の具体的実践である。国際平和を誠実に希求するとは、こうした実践の積み重ねとしてのみある。

 このドラマが描く直虎の歩みは、一国平和主義ではない。武田と徳川が今川攻めを画策するなかで、直虎は戦そのものを未然に回避しようと徳川に積極的に働きかける。この企ては失敗するものの、徳川方につくこととなった直虎は、徳川の使者に対し、城は明け渡すが兵は出さないと伝える。それでは新たな土地の安堵はできぬと言う使者に対して、直虎は「井伊のめざすところは民百姓一人たりとも殺さぬことじゃ」と返答する。蟻川氏は、敵味方をこえて「民百姓一人たりとも殺さぬこと」以外にはなく、これを「真正の積極的平和主義」と表現されている。

 領主としての井伊家は潰れるも、直虎は井伊谷に侵攻する武田軍と戦おうとする新たな領主に翻意を迫るために策を講じる。当時農民は戦時には兵力として駆り出されていたが、直虎は、領内の全農民に「逃散」を促すことで、主戦論の新領主を断念させた。兵力が存在しなければ戦はしたくてもできない。蟻川氏は、直虎のこの逸話を「前項の目的(戦争放棄)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする9条2項の具現化であると述べている。
    
 いつの世も、戦争では最も弱い個人が犠牲となる。どんなに策をめぐらそうとも、戦争がある限りこの犠牲はなくならない。ウクライナでも、イスラエルでも、パレスチナでも多くの弱者(子ども・女性・高齢者などの非戦闘員)が犠牲になっている。だから戦そのものを放棄し、兵力を持たないとした日本国憲法9条1項・2項には価値があるのだ。なぜならば、「民百姓一人たりとも殺さぬこと」を根本に据えるのが9条だからだ。

 人間はなぜ歴史から得た教訓を活かそうとしないのだろうか。

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