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今の日本に求めたいのは保科正之のような善政:リーダーは「知足の人」たれ!

 長野県の高遠といえば桜の名所、そして信州そば発祥の地でもある。保科正之という人物をご存知だろうか。(上記写真は高遠城本丸)

 保科正之は、徳川幕府をつくった家康の息子、2代将軍・秀忠の庶子として生まれた人物、つまり家康の孫ということになる。3代将軍・家光の弟、そして、駿河大納言・忠長の弟ということになるが、母親は淀君の妹であったお江与ではなく、お静という女性で、秀忠が生涯、正室であるお江与以外の女性との間に、ほとんど例外的にもうけたとされる子どもであった。

 保科正之という名前が示すように、彼は、やがて信州、高遠の藩主、保科家に養子として迎えられ、そこで成長する。保科正之が、将軍・家光や忠長の弟であるということは、誰もが知らないままに成長する。 7歳のときに保科家の養子となり信州高遠に入り、成人して3代将軍家光の異母兄弟と知られるようになる。人生形成の基礎となる小・青年期の19年間を高遠で過ごした正之は、のちに会津藩23万石の藩主となる。常に思いやりと慈しみをもった民に優しい政治は、ここ高遠藩で培われた。

 信州そばはとても有名だが、信州そばを世に広めたのは、高遠そばを愛した保科正之かもしれない。実は、遠く離れた会津にも高遠そばが伝わっている。幼少期に高遠藩の養子に迎えられ、後に藩主を務めた経緯があり、高遠そばは身近な存在だった。伊那市の伝承によると、正之は無類のそば好きとして知られ、城では客人へのもてなし料理として高遠そばを振る舞った。1643(寛永20)年、国替えで会津藩に移る際に、そば職人も会津へ連れて行ったことで、会津でも高遠そばが広まったとされる。

 会津二十三万石へ転封となった正之は、つぎつぎと仁政を実行に移していく。家光逝去の際に四代将軍家綱の補弼(ほひつ)役(補佐役)を命ぜられ、以来20年以上会津へ帰ることなく、自分を養育してくれた重臣達に藩政を委任して幕政に全身全霊を打ち込むが、大切な仁政は江戸より指図して藩政に反映させた。その主なものをあげると、
●殉死の禁止 ●税制改革と減税実施 ●社倉制度を創設(飢餓対策) 
●90歳以上の高齢者へ扶持米の支給 ●間引きの禁止 ●救急医療制度の創設 ●会津藩家訓の制定
などだ。領民を慈しみ、親や子どもを大切にして暮らせる世の育成を目指していた。また、幕政については四代将軍家綱を補佐し、徳川家康以来武力によって制圧した体制を、文治政治に切り換え、平和が長く続くよう、きめ細かな政策を講じた。その主たるものをあげると次のようになる。
●末期養子制度の緩和 ●玉川上水の開削 
●振袖火事の際、江戸市民の救済を優先するため江戸城の天守閣を再建せず ●新しい江戸の町づくり ●大名証人(人質)制度廃止を建議

 常に控えめで実直な正之のその生き様は「知足の人」(境遇に不満を持たず、自らはすべてに足りていると悟っている様)といわれていた。私利私欲のはびこる今の世の中こそ、保科正之のような指導者に日本の舵取りをして欲しいものだ。


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