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フランシスコ・ザビエルはなぜ日本へ①

 東南アジアで宣教師をしていたある男が、日本という国の存在を知り、日本での布教を目指すことになる。かのフランシスコ・ザビエルである。

 なぜフランシスコ・ザビエルは日本にやって来たのだろうか。それには、当時のヨーロッパの状況や、ザビエルの生い立ちが大きく関係している。
ザビエルは、戦国時代のちょうど中頃の1506年に、スペインとフランスの間にあるナバラ王国(現在のバスク地方)の貴族の家に生まれた。ザビエルが6歳のとき、スペインとフランスの間に戦争が勃発し、このナバラ王国も巻き込まれた。ザビエル家でも城が破壊されたり、二人の兄が戦争に参加するなど戦乱に翻弄された。この戦いがようやく終結したとき、ザビエルは18歳になっていた。ザビエルは1525年、パリの大学に入学した。当時のパリはヨーロッパの学問の中心地でもあり、ここで学士を得た者は大学教授、司教区の参事会員、司教など国の中枢を担う職につくことができた。パリの大学生は超エリートだったのだ。

 ザビエルはここで学友のイグナチオ・デ・ロヨラに出会う。ロヨラはかつて戦争で負傷し、療養中にキリスト教の信仰に目覚めた。ザビエルは最初はロヨラを疎んじていたという。だが、次第に心が通じあうようになり、ザビエルは貴族としての安定した生活を捨て、彼とともに信仰生活を送る決心をすることになった。

 1534年、ロヨラを中心とした7名が、モンマルトルの丘の聖堂で「清貧」「貞潔」「聖地エルサレム巡礼」の請願をたてた。これがイエズス会の成り立ちである。1537年、イエズス会の面々はローマに向かい、ローマ教皇に謁見し、エルサレム巡礼の許可状をもらった。当時のキリスト教徒にとって、エルサレム巡礼というのは、一生に一度は叶えたい夢だったのである。しかし当時、ベネチアとオスマン・トルコとの関係が悪化し、エルサレム巡礼はなかなか叶わなかった。彼らは規律正しい修道生活と奉仕活動などをしながら、エルサレム巡礼の機会を待った。

 一方、当時のキリスト教社会は大きく揺れていた。ルターによる宗教改革が起きたばかりであり、カトリック教会内部からも、教会の刷新を求める動きが生じてきた。そんな中、パリのエリート学生たちによってつくられたイエズス会の敬虔な信仰活動が、教会関係者の注目を集めはじめたのだ。そしてポルトガル国王がローマ教皇にインドへ宣教師を派遣するよう要請したとき、ローマ教皇は、「イエズス会」を推薦。こうしてイエズス会の全世界への布教活動が始まったのだ。

 1540年、ローマ教皇から要請を受け、イエズス会は会員3名をインドに派遣した。その中の一人が、ザビエルだった。ザビエルたちは ゴアの病院に住みこんで奉仕をしながら布教活動を行った。インドでの布教活動が5年に及んだ1547年、ザビエルはマラッカでアンジローという日本人と出会う。アンジローは故郷の鹿児島で殺人の罪をし、鹿児島湾に入港していた船で逃亡、インドにたどりついていた。罪の意識にさいなまれていたアンジローは、船員からザビエルのことを聞きつけ、マラッカまで会いに来たのだ。アンジローに会ったザビエルは、その聡明さに目を見張り、「日本人」に対して強く興味を抱いた。アンジローによると、日本人は学問を好み、礼節を重んじるという。ザビエルはマラッカでアンジローのほかに二人の日本人と出会ったが、二人ともアンジローと同様に徳と機知があった。「このような聡明な人種ならば、キリスト教を理解できるのではないか」 そう思ったザビエルは、日本に行って布教したいという希望を抱くようになった。

つづく

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