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矛盾と人権侵害を孕んだ戦前の近代化

 明治維新から155年が経った。京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は明治維新が日本の近代化の視点であったとする。この近代化の長い時間を、太平洋戦争の4年間をはさむ形で、前半と後半に分け、前半は明治に始まった近代化が第二次世界大戦に行き着き、後半は戦後復興における第二の近代化が今日のグローバル競争へと行き着いた時間だと説明している。

 佐伯氏にとって、「明治維新」のもっとも基底にあるものは「壮大な矛盾をはらんだ苦渋の試み」だと言う。明治維新の「維新」という言葉は、「復古」としての「維新」であり、「復古」とは天皇親政や神道の国家化など、日本独自の「伝統」を強く意識した国家形成を行うことを意味し、「刷新」は徳川の封建体制を全面的に打ち壊して西洋型の近代国家へと造り替えることを意味すると説明する。佐伯氏は、日本の近代は矛盾をはらみ、明治の近代化が日本独自の「国のカタチ」や日本的な倫理や精神の覚醒を促すと同時に、西洋型の近代社会の建設という目標を掲げたものだと言う。この矛盾を生み出したのが、黒船に象徴される西洋列強の来襲で、圧倒的な西洋文明に日本は適応するほかはなく、「富国強兵」「殖産興業」の明治政府の積極政策から始まり、大多数の民衆はこの「文明開化」に飛びつき、一気に「欧化」が始まった。

 西洋文明は明らかに日本を先んじており、日本は早急にそれを取り入れなければならないが、それは、あくまで日本の独立を守るためであった。国の独立こそが目的であり、西洋文明の導入はその手段で、西洋が力で世界を支配しつつある時代に、列強と対峙しつつ独立を保つには、西洋文明によるほかなかったのだ。その先にあったのは何かといえば、知識であれ、制度であれ、生活様式であれ、西洋流を先進文明とみなしてひたすら模倣し、それを日本の先端だと誇り、列強の仲間入りをすることだった。

 大日本帝国憲法が制定され、帝国議会が開設され、日清戦争や日露戦争を経て富国強兵も功を奏し、日本が西洋列強に伍するにつれ、もともとは武士であった明治の指導者たちは、強い倫理観と武士的精神の持ち主であったが、徐々に日本人の内面生活が希薄化していく。佐伯氏は、太平洋戦争後の第二の近代化を西洋化というよりもアメリカ化であったと語っている。

 佐伯氏の指摘する「矛盾をはらんだ日本の近代」という考え方は面白い。明治維新後の日本は、西洋列強に追いつけ、追い越せとばかりに、「文明開化・富国強兵・殖産興業」を推し進めた。今回は佐伯氏が言うところの日本の近代化の前半につき、以下に論じることとする。

 江戸時代から明治時代への社会構造の大転換は、いつの世も最も弱い立場に立たされた子どもたちに大きな影響を与えることになった。孤児(親のいない子)、棄児(捨て子)、貧児(貧困で親に育てる力のない子)が街道沿いや街中に増えることになる。そこで、心ある民間人が立ち上がり、子どもたちを収容し、養育するための民間の児童救済施設が全国的に勃興していく。児童福祉の走りである。

 「家制度」とは、明治31年(1898)に施行された明治民法に定められた家族制度だ。「家」を単位として1つの戸籍を作り、戸主である家長がそこに所属する家族全員を絶対的な権利をもって統率(支配)する仕組みで、戸主(家長)は家で一番「年長の男性」と決まっていた。江戸時代の子育ては「家」の継承を価値と考える社会だったから、育児のリーダーは父親だった。しかしながら、明治になると、男は近代国家のために働き、女は家で子育てを担うという役割が形成されるようになった。
 
 明治40年(1907)、就学率の上昇と尋常小学校に併設された高等小学校の普及を背景に、義務教育が6年に延長された。明治30年代初頭に義務教育費の国庫補助制度が確立され、明治33年(1900)の小学校令により義務教育4年制が定められ、授業料も原則として廃止され、明治8年に約35%であった就学率は、明治38年には約96%に達した。これは「富国強兵」を実現するための方策の一つであり、決して子どもたちに「学ぶ権利」を提供するものではなかった。子どもは未来の兵力、未来の国力でしかなかった。

 明治33年(1900)、未成年者喫煙禁止法が制定された。同様に制定が望まれた未成年者飲酒禁止法が成立するのは、22年後のことだ。明治政府の課題として兵力の増強が叫ばれる中で、兵力の源泉である子どもの健全な成長を妨げる未成年の喫煙や飲酒は望ましくない、同時に、労働力の確保という意味でもこれからの産業を担う未成年者は健全な肉体を持つべきだという主張がなされた。未成年者喫煙禁止法はすぐに可決されたが、未成年者飲酒禁止法の立法化には22年もの月日を要している。政府にとって酒税は重要な税収になっていたことが一因になっている。大正11年(1922)、未成年者飲酒禁止法がようやく可決される。当時、少年の反社会的行為が問題化し、不良少年の存在は近代国家たる日本にふさわしくないばかりか、教育費を無駄にすることになるとの意見が通り、ようやく成立にこぎ着けることとなる。

  らい病(ハンセン病)にかかった者は、仕事ができなくなり、商家の奥座敷や、農家の離れ小屋で、ひっそりと世の中から隠れて暮らしたり、家族への迷惑を心配し、放浪の旅に出る「放浪癩」と呼ばれる人がたくさんいた。 明治になり、諸外国から日本は文明国を名乗りながらハンセン病患者を放置しているとの非難をあびると、政府は1907年(明治40)、「癩予防に関する件」という法律を制定し、「放浪癩」を療養所に入所させ、一般社会から隔離した。この法律は患者救済も図ろうとするものだったが、これによりハンセン病は伝染力が強いという間違った考えが広まり、偏見を大きくすることになった。ハンセン病者の子どもたちも療養所に隣接する学校に通うことを余儀なくされた。

 日本の近代化の前半は、佐伯氏が指摘するように矛盾を孕んでいるだけでなく、日本が列強に入るべく侵した人権侵害の歴史でもあるのかもしれない。
 

 

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