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孫文の陵墓「南京中山陵」の刻印が入った石がなぜ宮崎に…

 戦前、戦中によく使われた“八紘一宇(はっこういちう)”という言葉をご存知だろうか。広辞苑によれば「世界をひとつの家とすること」という意味で、太平洋戦争中に軍部が日本の海外進出を正当化するためのスローガンとして利用された言葉だ。太平洋戦争後は、GHQの命令により、日本国民を解放するため、戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及び現在の悲惨な状態を招いた「イデオロギー」を即刻廃止するべきとし、「八紘一宇」の用語は国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離すことができない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた。

 実はこの言葉が今も堂々と残されている場所がある。宮崎県の観光名所のひとつ宮崎市平和台公園だ。この公園のシンボル、平和の塔の中央に彫られた「八紘一宇」の文字。そして塔の四方を取り囲む土台には日中戦争時に国内外の日本人団体や中国各地に展開していた日本陸軍部隊から送られた1700個以上にのぼる石がはめ込まれている。石が送られてから84年。塔が完成してから85年が経過しているが、実は平和の塔の正確な歴史はまったくと言っていいほど語られず、「八紘一宇」の文字の意味を知っている市民はほとんどいないということだ。

 この宮崎市の中心部の高台にそびえ立つ平和の塔は、昭和13年11月に構想が発表され、2年後の昭和15年11月に完成したものだ。当時は八紘之基柱(あめつちのもとはしら)、通称「八紘一宇の塔」と呼ばれた。この「八紘一宇」の精神は日中戦争から太平洋戦争へと拡大する時代、大東亜共栄圏を理想とする大日本帝国の東アジア侵略の大義名分・スローガンとして利用された。
 「八紘一宇の塔」の四方を取り囲む礎石には1700個以上のもの切石がはめ込まれ、ほとんどの石に贈り主の名前が彫り込まれている。当時の新聞によれば、石材寄贈の依頼は「宮崎県や郡市町村を区域とする公的団体。道府県及び道府県を区域とする公的団体。樺太庁、朝鮮総督府及び各道、台湾総督府及び各州庁、南洋庁、関東州の公的団体、満州国各省、及び同区域に在住の日本人会、支那各地、独伊其の他帝国大公使館、領事館所在地日本人会、大陸又は太洋上に挺身奉公中の郷土部隊」となっていたが…。旧満州国、香港、台湾を含む中国全土に駐屯する多くの中国派遣軍部隊からも献石を受け、その数は200以上もある。
 これらの献石は宮崎県の相川勝六知事(当時)の友人の陸軍軍人の好意で自然に集まったとも言われていたが、防衛庁の防衛研究所の書庫に相川知事が当時の陸軍大臣、板垣征四郎氏に宛てた献石への協力を求めた文書が保存されているが発見っされている。
 陸軍はこれを受けて構想発表から約半年後の昭和14年7月末に在満在支各軍に対して「石材寄贈については各部隊毎に各2個を標準とし、1個は軍又は部隊指令部所在地付近のもの、1個はなるべく第一線付近のものとす」「第一線においてはなるべく皇威の及べる地極限点付近のもの。遅くとも本年11月末までに送付すること」という通達を出していたのだ。そしてこの通達により、まるで手柄を争うかのように、中国全土の最前線部隊から石が送られてきたという。
 そして昭和20年8月15日に敗戦。戦争責任追及から逃れるために、いち早く軍国主義の象徴「八紘一宇の塔」から「八紘一宇」の文字が削られる。塔の呼び名も「平和の塔」に変更し、やがて平和台公園として宮崎県の観光名所の一つになった。
 その後、国民が好景気に浮かれていた昭和39年9月には平和台公園がオリンピック東京大会の国内聖火リレーの起点に選ばれ、国際舞台に再デビューすることになる。さらに翌年には「八紘一宇」の文字も復元され、敗戦からわずか19年で完全復活を遂げることになった。

 「八紘一宇」という言葉を使うかどうかは問題ではない。戦後は、軍国主義の象徴として忌避されたが、もともとは『日本書紀』に書かれた神武天皇が語ったとされる言葉である。意味は、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」、つまり、全世界を一つの家のようにすると解釈したもので、「八紘一宇」とは、人種・民族・宗教等の差別なく、世界のみんなが一つの家に平和に暮らす理想を願う意味合いがある。神武天皇が即位されて2600年目がちょうど1940(昭和15)年にあたり、当時の近衛総理が「八紘一宇」を政治スローガンとして使ってしまったのだ。

 問題なのは、南京民間抗日戦争博物館の呉先斌館長が、平和の塔に使用されてしまっている石が日本軍によって中国から持ち出されてしまった石の返還を求めていることだ。中国の霊獣「麒麟」が彫られた石は14世紀に明王朝を興した工程の陵墓にあった可能性が高く、「国宝級の文化財」だという。また、孫文の陵墓である「南京中山陵」の刻印のある石と、「南京紫金山麓」と彫られた石に「南京」としっかり刻まれているため、不法に持ち出されたのではないかと主張している。
 紛争時に文化財を不正に持ち出したり破壊したりする行為は、「武力紛争時の文化財保護条約」が禁じている。文化財を専門とする日本の学者も「文化財はその価値を見出す人や国の元にあるべきだ」と主張している。

 宮崎県は返還を拒否しているそうだが、新たな歴史問題にならないか心配なところである。

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