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"信念"に気付いた出来事

普段は怒りの感情を抱くことはほとんどないのだが、その感情が発露した出来事があった。しかし、それはポジティブな考えの裏返しであったことに気付くきっかけとなった。

合気道の稽古に16歳から励んでいるが、日々稽古していて、その考え方や稽古方法は他者にとっては特殊であのだろうと感じる。それは僕にとっては「自然」そのものであるが、「人間」の日常の行動や感情の捉え方とは相反する部分があるのだろう。

その特殊性から、しばしば合気道を批判する人がいる。自由に議論することは構わないが、その内容は支離滅裂であることが多い。普段はそのような話には耳を傾けないが、ある人の批判には苛立ちを覚えた。

怒りの感情を抱くことがあまりないため、その時、何に怒りを感じているのかを分析してみた。合気道をインチキ呼ばわりしたその動画(実際にインチキの場合もあるのだが)に対して不満を抱いた理由は、合気道の稽古に励む人の上達過程、あるいは人との関わり、教え合うことの大切さ等のありとあらゆる豊かさを否定された気がしたからだった。

合気道はただ動きを覚えれば上手くなると言ったものではない。全ての人間が合気道の本質にたどり着き、技を習得できるわけではない。その原理を真に身につける人は確かに少数である。しかし、稽古に時間を費やすなかで、特定の人がそれに心の拠り所を見出し、一生懸命練習に励むことは事実である。そのような豊かさを否定する権利は誰にもない。

自分が大切にしているもの、確実に人の幸せや豊かさに貢献するであろうものが何かを僕はよく理解していた。だからこそ、それを否定された気がして、不愉快に感じたのであろう。自分をそして他者を成長させてくれたものの大きな価値に気付いていたから、そのような感情を抱いたのだろう。

人は生きていく中で多くの選択をする。その選択の多くを周囲に流された人もしばしば目にするが、少なくとも自分は物理的、精神的な必然性を持って選択している。したがって、そこには大切にしている思想や価値観、信条がある。そのことに気付くことのできた出来事であった。

2021年7月22日

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