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隣の芝生の青さは、いずれ誰もが認識する

本に書かれていることに深く共感できることがある。それは、当然ながら自分のそれまでの知識や経験、感情の蓄積が大きく関与している。それに加え、その言葉が自分が言語化できていなかった感覚的、感情的なものを表現したものであれば尚更だ。

また無意識的に向き合いたくないと思っていたものが、言葉として記述されている場合、すごくほっとした気持ちになる。無意識に避けていたものを認識し、正面から接することができると同時に、それを自分以外の他人も感じていたという安心感は、それを当然のことであるとの認識へと変化させる。悩みがすっと消えて無くなる感覚だ。

無意識に避けているもののほとんどは、自分の考えや行動が周囲の人々と異なること、接点を持たないことに起因している。しかし、それは意識的に行動をした結果であって、確実に自分に責任がある。

そうは言うものの、人と同じことをしていてもつまらないという感覚が心の根本にある。それは、人と違った言動が純粋に面白いと思う一方で、社会のレールに留まることに対する危機感も実感している。それに気がついてしまった以上は、そこにしがみついていても仕方がなければ、皆と同じ行動をとる必要もない。

思想家の内田樹さんは著書『武道論』において、人間には「平時対応」の人間と「非常時対応」の人間がいると説明する(第三部:かつての武道的なものと未来の可能性[半分諦めて生きる]より)。そして非常時向きの人間は平時向きの人間とは異なり、「真の才能」を持ち合わせている。

「才能」とは、「この世界のシステムを熟知し、それを巧みに活用することで、自己利益を増大させる能力」(p.227)とここでは説明されている。それに対して「真の才能」を持つ人は、「つねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練」(p.228)をしており、秩序が均質的に崩れていくように見える「カオス的状況においても局所的には秩序が残る」(p.228)ことを感知できる。

才能を持つ人の例として「富貴の人」が挙げられている。彼らは「世の中の仕組みにスマートに適応して、しかるべき権力や財貨や威信や人望を得て、今あるままの世界の中で愉快に暮らしていける人」(p.225)であり、「この世界の仕組みについて根源的な考察をする必要」(p.225)を感じない。

しかし、世界の仕組みは永遠と続くものではない。いずれ必ず崩壊する。それはいつ、どのような形で起こるのかを予測することはできないが、「真の才能」を持つ人は、その時に何をすればいいのかを示すことができる。

「平時対応」を選んだ子どもたちは、「もしもの時」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。「非常時対応」の子どもたちは、「もしもの時」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。どのような破局的場面でも揺るがぬような確かな思想的背骨を求めつつ同時に「富貴の人」であることはできないからである。(p.230)

そして、自分がどちらの人間であるかを自己決定することはできないという。これは「生得的な傾向として、私たちの身体に刻みつけられている」(p.230)からだ。

したがって非常時向きの人間は、意識的に何かを諦めなければならない。この「意識的に」という部分が、しばしば不安を掻き立てる。

「意識的」の度合いは、平時向きの人間と非常時向きの人間とで異なる。両者ともに、何かを諦めなければならないことは事実であるが、社会の大多数は平時向きの人間が占めている。多数派であるという事実と自覚は、彼らにとっては自分の人生を正当化する恰好の根拠となる。また、多数派であるため、少数の非常時対応の人間の人生を目にすることはほとんどない。少なくとも積極的に見ようとはしない。

したがって、平時向きの人間の意識的に何かを諦める、その「意識的」の度合いはそこまで大きいものではない。ましてや「富貴の人」ともなれば、ほとんどないだろう。対して非常時対応の人間が認識する「意識的な諦め」の度合いは、自分が少数派であるという事実、さらにはリアルな空間での周囲の人々の多くが平時対応の人間であるという状況に大きく影響される。

この節の最後は以下のような文章で締め括られている。

いずれそのような重大な責務を担うことになる子どもたちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。彼らはたしかに何かを「諦めている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、諦めてはいけないもの」を望見しているからである。たぶんそうだと思う。(p.232)

このような内容を記事にしている時点で、僕が非常時対応の人間であることは明白だろう。そして僕自身、自分がなぜこの時代に生まれてきたのかということを何となくは把握している。

内田樹さんの文章を読んでいるときに、それをしみじみと感じた。『武道論』の読了後、メディアアーティストの落合陽一さんの著書『半歩先を読む思考法』を読んでいたが、そこでの「芝が蒼く輝きだす」という表現は、僕のしみじみとした実感の客観的状況を上手く表現していた。

年末年始に研究室に籠りながら、ともに研究する20代の学生さんを見ていて、少年老い易く学成り難しという格言を久しぶりに思い出した。研究も創作も人間関係も恋愛も就職もなんか色々やらないといけなことがある20代をどうやって過ごしてきたのか、僕はもう忙殺で脳の余力がなく人生のほとんどのことを忘れてしまったけど、彼らは彼らで目の前に広がる人生を全力で生きているんだなぁと感じる。何がベストなんだろう、忘れ去ることなのか、何かを諦めることなのか、それとも何かに満足したと自分を洗脳することなんだろうか。(p.20)
時間は有限だから、全部をこなすのはかなり難しい。しかも切り捨ててしまうと芝が蒼く輝きだすから厄介だ。大人になってから取り戻そうとする青春は醜いし、ちゃんと老成する方法論だってあるはずだとも思う。(p.20)

諦めているものがあるとは、なかなか認めたくない。しかし、2人の文章を読んで、僕が得た感覚を言語化している人がいるということ、それを日常的に一部の人々は感じているということ、さらには歴史的文脈においてもそのような人間は存在しているという事実には安心感を与えられた。そうは思いつつも、もう少し非常時対応の人間が増えてもいいのではないかと思う。

2021年12月30日

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