知に個性は存在するのか
以前書いた記事『人工知能による「自己」の拡張』において、自分の知性をデジタル空間上に保存し、AIに最適化させることについて述べた。その際、記事を書きながらも、知性に個性のようなものは存在するのかという疑問を抱いていた。自分の思考がインプットされたAIには、個性のようなものは宿るのだろうか。
あらゆる人々の思考をAIに入力すれば、進化に伴ってそれは「全知」となるだろう。一方、独自の思考やアイデアのみを入力した場合はどうなるのだろうか。もちろん、"自分だけ"の考えなどは存在しない。誰しもが物を考える際には、他者の書いた本などの知識をもとにしている。そのような観点では、独自の考えも最終的には「全知」になり得るのかもしれない。しかし、思考やアイデアには明確な論理に基づかないイメージや解釈が含まれる。むしろ、言葉で説明できる要素は元の感覚的なアイデアとは異なり、全て後付けの場合もある。
そもそも「全知」なるものがどのようなものであるかすら分からない。それは「完全な知恵」ということだが、「知が完全である」とはどういう状態を示すのか。全てを知る特定の存在を指すのだろうか。
考えても仕方がない。しかし、「全知」に関して一つ思うことは、自然がそれに近い存在であるということだ。自然は全体としては上手く機能している。確かに個々の生物は、生存という生命にとって最も重要な観点からでさえも不完全な存在であるが、自然の摂理(例えば食物連鎖による循環作用など)からも分かる通り、全体としては成立している。このようなものを「全知」と言うのではないだろうか。
それは、人間にとっての言語や明確に理解できるものとして存在しているかは別として、既にこの宇宙に全体として在るものなのだろう。対して、言語化される人間の知性は、その一側面を表したものに過ぎないように思う。そしてその側面とは、あるがままを示したものではなく、人間の脳を通した理解や認識であり、すなわち「解釈」であると言える。思考と感情に関連性があることを考えると、個々の知性には、その人の思考や感情、感覚が宿ることになる。
そのような思考や感情がAIによって最適化されると、どのようになるのか。そのAIは個人の思考やアイデアという枠組みを超えたところにある真理や原理について言及するようになるのだろうか。個々の知性と全知との境界線が明らかになるかもしれない。
2023年5月24日
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