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現代では否定的にみられる過去の社会体制の肯定的側面

社会が大きく揺れ動いている時代においては、古い社会体制に関する言及が増える。社会システムは当然のことながら、時代によって変化し、壊れては新しいものが創られていく。

現在21歳の大学生である僕にとっては、古いものと新しいもの、その両方に目を向ける必要がある。どちらを選択するにしろ、または両方を選ぶにしても、一方を受容し、他方を否定することは賢明とは言えない。両者ともに、良い点もあれば、そうでない点もあるからだ。

僕の書くnoteの内容の多くは、新しい時代に受け入れられるものである。この記事では、あまりに一般的であるため、その凄さが薄れてしまった過去(あるいは現在)の社会体制について論じようと思う。教育や社会的信用、賃金、労働に関する内容である。

僕は、自分自身を表現することで人間としての価値を高め、経済的に自立することを第一の目標にしている。企業に勤めると、収入を得ることはできても、自分自身を100%表現することはできない。なぜなら、労働に基づく作業が、単純に自分にとってはつまらないものである可能性があるからだ。

具体的に社会で稼いでいくには、人間としての価値を高めることと同時に、社会的信用を獲得する必要がある。オフラインでのミクロな人間関係では、信用の獲得には、そこまで時間はかからない。ところが、例えばオンラインの媒体のみを通して社会的信用を得ようと思ったときには、相手にとって自分の存在は不透明なものとならざるを得ない。

旧来のシステムでは、極端な例においては、一度会って面接をすれば、収入を得るための契約を交わす機会を得る。アルバイト等がわかりやすいだろう。社会経験のない人間でも、面接を通ることができれば、時間単位での給料を得ることができる。

本来、"教育"とは生きるための術を教えることであるが、現代の子供たちは、それをされないまま(社会の仕組みに関する知識および生きるための手段や能力を身に付けないまま)、社会へ出る。これは保護者や教育者の責任が問われるべき問題であるとは思う。とはいえ、そのような社会的能力(もちろん基礎的なものは育まれる)のない、生きる術を持たない場合でも、社会で生活していけるだけの収入を得ることができる。それを可能にしている仕組みが、現代の社会制度にはある。

社会的信用について考えてみよう。アルバイトとして、ある企業で働くとする。そして、時間単位で固定された給料が支払われる。その人は、その会社の従業員としての信用を既に得ている(そうでなければ働くことはできない)。本来は、自力で自分の信用を獲得することに長い時間が費やされる。しかし、これが30分程度の面接で得られる。

社会的信用を獲得し、はじめてモノやサービスを提供して長期的に利益を得ることが可能なわけだが、社会的信用の蓄積およびモノを販売するあらゆるプロセス、そしてその基盤づくりを全て自分自身の手では行わずに、収入を得ることができる。あまりに一般的であるため、それを当然のことと思っている者は多いが、これらの膨大な時間と労力を省いて、誰もが収入を得られる仕組みは大変素晴らしく、非常に都合の良い話である。

このことを考慮すると、大卒という資格の凄さも分かるだろう。大学は本来は研究機関であり、教育機関ではない。したがって、生きる術を指導しているわけではなく、学生がそれを身につけたプロフェッショナル集団であるわけでもない。しかし、新卒というだけで、企業に就くことができる。給料のみならず、福利厚生も保障される。

もちろん、現代のシステムは機能不全に陥りつつある。既に崩壊しているが何とか延命処置が施されている状況にある。壊れかけているのであれば、早く壊して新しいものを作れば良いという意見もあるだろう。そうはいうものの、旧時代の社会体制が我々の社会を維持してきた事実を否定することはできず、また未だにその恩恵を受けている人々がいることも確かだ。そしてその体制は、過去には効率的に機能し、確実に社会に豊かさをもたらしていたのだ(とはいえ過去を守り未来を犠牲にするわけにもいかない)。

多くの人は、過去のものを揺るぎない確かなものと思うが故、それに対する執着を捨てることができない。確かに、一見それは”安定”しているように見えるが、”安定”とは本来変わり続けている状態を示す。全ての事象は常に変化し続ける。なぜならその状態の方がより安定し、自然体で居ることができるからだ。

2022年3月2日

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