見出し画像

僕たちのフィルダースチョイス 6/17

     11

 その晩の反省会は、塁も同席した。田辺が家に電話をして、お母さん、つまり早希子の母親にその旨を伝えて許可をもらっていた。
 田辺は、早希子の母親には高校時代に一瞬だけお目にかかり、塁の入塾のときにもう一度顔を合わせている。もちろん、向こうは田辺塾長が柴高の野球部主将の田辺くんだったなんて覚えているはずもないが、早希子の母親はあのときも、二十の年齢を重ねた現在もきれいな女性であった。「塁のおばあちゃん」と呼ぶのは申し訳ないくらいだった。

 権藤のボルボに四人の大人と、子供が一人乗って、塁の自宅方面にある手近なファミリーレストランに入った。
 そこはハンバーグが売り物の店だった。
 ブースには田辺と権藤が塁を挟むかたちで座り、宇賀神と藤原が向かい側に座った。
「なんでも好きなもの頼めよ」
 宇賀神が広げたメニューを塁に差し出した。「今日はゴンドーフ先生の奢りだから」
「俺はまだ先生ちがうやろ。今日はマガジン先生の日やないか」
 権藤の抗議を無視して、宇賀神はメニューを食い入るように見つめた。
「運動したら腹が減るのぉ。眺めてただけやないもんな。なぁ塁?」
 塁はメニューから一瞬だけ目を離し、チラッと宇賀神を見ただけだった。

 それぞれがチーズハンバーグやらチキングリルとのセットなどを注文してから、サラダを取りに席を離れた。
 田辺が声をかけた。
「サラダは?」
 塁は首を横に振った。
「なにか取ってこようか?」
 さらに激しく首を振った。
 宇賀神が二杯目のサラダを食べ終わったころ、ウェイトレスが食べ物で満載になったカートを押しながらやって来た。
 五つのプレートに、ハンバーグがジュウジュウ音を立てながら、湯気を上げている。
「なんかな、俺、こういうの久しぶりやで。酒を飲まない会食自体が珍しいし、ファミレスて……」
 全員が次の言葉を待った。
「……ファミリー感あってええよな」
「もうちょっと気の利いたひと言は出えへんものか? 俺たち待ってもうたやん。期待したやん」
 権藤がからかった。
「コンビニはコンビニエンス感あるよね」
 藤原も追い討ちをかけた。
「独身の俺には、こういう場所でこういうメシって、なんかいいんだよ。子供が同じ席にいるなんてことがないからな」

 宇賀神は、ジュンとゴンドーフに挟まれて座る、向かいの塁に笑顔を向けた。
「プレゼンやったら、その中央の席は一番エライ人が座る席なんやで」
「プレゼンってなに? プレゼント?」
 初めて塁が質問をしてきた、と田辺は思った。
「プレゼンいうのは、お客さんの前でこちらのアイデアとか企画を見せて、どうですか? おもしろいですか? 一緒にやりませんか? おカネ出しませんか? て説得する会のことや」
 宇賀神がいちいち身振り手振りをつけて説明した。
 田辺が補足した。
「プレゼンはプレゼンテーションの略だから、贈り物のプレゼントとも元は同じやな。『どうぞ』て差し出すことやからね」
「いま英語の授業はええねん」
 宇賀神がつまらなそうに言った。
「さぁ、ハンバーグどうですか? おいしそうでしょ? 食べませんか?」
 また宇賀神が大きな体に大きなアクションで、塁を促した。
「マガジンは、田辺よりもいい先生になれるかもしれへんな」
 権藤が感心した。
「いいパパにもなるはずやのにねえ」
 藤原も同意した。

 宇賀神鋭介はいまは独身だが、かつて結婚していた。
 柴山高校を卒業した彼は、大学でも野球をつづけた。田辺純も中田一馬もそれぞれ別の大学へ行ったが、みんな関西にいたのでたまに会って近況を語り合うことはあった。
 宇賀神は高校の頃より膝にケガを抱えていて、一度手術もしていた。結局、それがもとで大学ではレギュラー選手にはなれず、代打としての試合出場が多かった。ただ、通算打率はよく、三割を超えていた。
「三割二分打てれば文句はないわ。野球には諦めもついた」
 田辺にそんなふうに話したことがあった。
 ランナーが塁上にいるときに、バットで指して「お前を還すで」と、大学でもやっていたのか、田辺は訊いたことはなかった。
 しかし、大学でも「マガジン」という渾名で呼ばれていることを知って、田辺は笑った。

 はじめに就職した印刷会社は四年で辞め、中堅広告会社である東広企画に転職して以来、十年ほど営業マンをやっている。
 結婚したのは、東広に入って二年目のときだった。
 相手は芳美という、製薬会社に勤める三才年上の女性だった。小柄だが目鼻立ちのくっきりした美人で、典型的な美女と野獣タイプのカップルだった。
 田辺も出席した結婚披露宴では、司会の女性が二人のなれそめを紹介するときに、
「宇賀神鋭介さんと山岡芳美さんは、二〇〇八年、爽やかな風が吹く五月のある日……、ふつうにコンパで知り合いました」
と列席者の笑いを誘った。
 宇賀神は真っすぐな性格だから、素直で明るい人とふつうに巡り会ったことを誰もが祝福した。

 それなのに、三年で結婚生活が破綻した理由を、田辺は知っていた。離婚前後の宇賀神は苦しい胸の内を彼によく語った。
 将来をどうしたいああしたいと、特に合意してから結婚したわけではなかった。宇賀神はそういうことを綿密に計画したり、話し合ったりするタイプでもない。その時々のひらめきや気分で物事を即座に決めて、進める男だ。
 ただぼんやりとは、いつか子供を持って、いつか自分もお父さんになって、いわゆる「ふつうの」幸せな家庭を築くことに異論はなかったのだ。
 芳美はちがった。
 勤め先の製薬会社は、これから女性幹部を増やしていく方針で、芳美はそのチャンスを逃したくなかった。お互い三十を超えて、そろそろ子供をどうするのか、考えなくてはならない時期に、芳美は社費でのMBA留学を望んだ。
 宇賀神は芳美が子を育てるなら、産休や育休制度を大いに活用して、社内の女性社員たちの一種のロールモデルになることは応援するつもりだった。
 自分は広告業界にいる限り、夜は遅くなりがちだが、朝食は自分が作るし、掃除や洗濯などの家事はやるつもりで、実際に過去数年の結婚生活ではそうしてきた。

 しかし、MBA留学は想定外だった。
「俺三十才。お前三十三才。えーと、そのMBAのためにこれから勉強して、行って帰ってきて、三十六か? どないするつもりなんや、子供は」
 最後のひと言は、宇賀神は言いたくなかった。これまで将来のことを話し合ったこともないのに、あたかも勝手に予定に組み込んでいるかのように聞こえた。そして、思わず詰問調になっていることに、自分で声に出してしまってから気づいた。
 自分は何事にも大らかで、女性の社会進出にも理解があると考えていたのに、なんだか「女は子供を産むべし」と言っているようで、自己嫌悪が胸をチクリと刺した。
 しかし、そうではない。そうじゃない。
 人様の家庭だとか、産む産まないの選択に口を出すつもりはないのだ。しかし、俺の人生、俺の家庭、俺の子供を、どうしたいのかくらい、俺の家の中で口にしてはいけないのか。

「私は、子供はほしくない」
 そう答えたときの表情のない芳美の目は、宇賀神に昆虫を彷彿させた。自分の生命を、それだけを優先して、あとは何事も忖度することのない、純粋でその奥になにも透かし見ることができないくらい曇った、生き物の目だった。
 宇賀神は「俺はほしい」とは言えなかった。彼女の希望を砕いてまで子がほしいと明確に思っていたわけではないし、産むのは自分ではない。

「あの日からな、芳美の顔を、目を、正視できなくなってしもたんや。蟷螂みたいでな」
 バーカウンターにてある晩、宇賀神が田辺と酷い深酒をしたときに打ち明けた。
「なんのためにいっしょに暮しているのか、もうわからへんな。毎度毎度『中に出さないでよ』って念押しされてするセックスもまっぴらやで」
 宇賀神はそんなことまであけすけに語った。
「つらいな」
 田辺はそれしか返せなかった。
「あれは、ない」
 呻くようにそう言った宇賀神の横顔には、怒りなのか悲しみなのかが、いつになく深い皺を刻んでいた。
 その晩から数か月して、田辺は宇賀神から別れたことを聞かされた。

「塁、遊んでないで食べろよ」
 宇賀神の声で、田辺は塁のプレートを見た。
 彼はハンバーグをぐちゃぐちゃに切っただけでほとんど手をつけず、いまはフォークでミックスベジタブルを緑、黄、赤の三色に分けることに没頭していた。
「野菜の方が好きなのか?」
「ううん」
「ハンバーグは嫌いか?」
「ううん」
 塁の返事はどちらも同じだった。
「なんだ塁、まさか『ワタシはヴィーガンですので』とか言うんちゃうやろうな?」
「ヴィーガンてなに?」
 塁が顔を上げた。
「ヴィーガンいうのは、肉も卵もチーズも、つまり動物性のものは一切食べへん人のことや。もしお前がヴィーガンやったら、俺があげたグラブ返してもらうで」
「なんで!」
 さっきは屋上に放置したくせに、いまは片時も離さず傍らに置いている黒いグラブを、塁は抱えこんで拒否した。
「そのグラブは革やからな。牛さんの皮膚だ。俺たちがこうして食べているハンバーグは、牛さんの肉だ。おいしく食べる。そして、皮はグラブとか靴とかカバンになって、大切に使われるんや」
 そう言いながら、宇賀神はひと切れを口に入れて、ゆっくりと、旨そうに噛んでみせた。
 それを見た塁が、フォークで肉片を刺して口に運んだ。
「旨いやろ?」
 塁は無言だったが、宇賀神はつづけた。
「別に、肉が嫌いなら食べへんでもええ。野菜が嫌いなら食べへんかて死にはしない。せやけど、なにか食べないと、大きくなられへんからな」
 塁は頷いた。
「おいしい」

「でも本当は、殺生はしないに越したことはないよなぁ」
 藤原が自分のハンバーグを見つめていた。
「なんや、ほんまもんのおクゲさんみたいなこと言いやがって。メシがマズなるやろが」
 マガジンがクゲを睨んだ。
「殺生ってなに?」
 塁の質問には田辺が答えた。
「動物を殺める……がむつかしいか。つまり、殺すことやな」
 塁の顔色が変わったのを見てとった田辺は、慌てて言葉を継いだ。
「あのな塁くん、聞いてくれ。人間も動物も、みんな自分優先で生きているものなんや。人は、動物や植物の命をいただいて生きてきた。きみも、きみが生きたいように生きればいい。でも、そのために人を殺すのはダメだってことはわかるやろう?」
 塁は頷いた。
「人のものを盗むのもよくない。人のことを殴るのも×だ。せやけど、自分の身を守るためとか、大切な人のためにケンカをすることは△なこともある。だから、自分が生きるために動物の命をいただくことは、△のギリギリセーフなんやと思うよ」
 田辺は、なにか言いたそうなマガジンを見た。
「△ちゃうで。〇やん。なにも人のペットを捕って食べよう言うてへんで? 釣りに行って、『よっしゃ、今日の晩ごはん釣れたで!』て、人間が生きる基本ちゃうんか。◎やで」
「野菜や果物を育てる農家だって、害獣とされるモグラとかアライグマとかは殺すやろうしな。『立入禁止』て書いておけば来なくなる連中ちゃうから。虫だって農薬で駆除するやろ。うちの母親の田舎は農業やってるけど、都会の人が考えるほど平和で牧歌的な仕事ではないで」
 ゴンドーフがフォークに刺したポテトを示しながら言った。

 食品加工工場の管理職であるクゲが、いつもより声を大きくして話した。
「うちも食品を扱ってるからわかるわ。別に僕が菜食主義を代弁したいわけではなくて、牛や魚はオッケーで、猫はあかんいう、人間の都合によって殺したり生かしたりすることにモヤモヤは感じるだけで」
「それを言うたら、キッツい仕事して給料安い人もいれば、座ってるだけで高給もっていくおっさんもおるやろう。不公平なんだよ、世の中は」
 どうもマガジンが話を脱線させそうだったので、田辺は軌道修正を試みた。
「クゲが菜食主義という言葉を使った通り、主義の問題やから、なにが善くてなにが悪いのか、それぞれが信じる神を信じるしかないんちゃう?」
「ジュン、それぞれの違う神が戦争の原因になるのがこの世界やで」
 ゴンドーフがメガネを光らせて、ニヒルな台詞を吐いた。そして、フォークを皿に置いた。「人を殺すのはダメだと誰でも知ってるけど、映画を観たら最後に悪党をぶち殺してハッピーエンドいうのが多いやろう。『マッドマックス 怒りのデスロード』を観て、終盤にイモータン・ジョーがマックスにぶち殺されてスカッとしない人はおれへんやろう」
「ぶち殺すぶち殺すって……」
 クゲが目配せをして、「子供の前で言葉に気をつけろ」と促した。
「あ、そうか。すまん。しかしな、そのとき誰も、イモータン・ジョーにも家族がいるとか、友人たちとのかけがえのない思い出があるとか、好きな食べ物があって、愛した音楽があるとか、考えへんよな」
 マガジンがぷっと吹き出した。
「せやろ? 笑てまうやろ。でも、イモータン・ジョーに甥っ子でもいたら、『厳しかったけどやさしかった、あのジョーおじさんは、マックスとかいう流れ者に殺されてしまった』ってことになる。それで諍いになる。それぞれに正義があるからな」
「肉の話とどう関係があるんや」
 田辺がきょとんとしていた。
「だから、人間はよく知らない極悪人なら誰かに殺されても構わない、むしろスカッとするという冷酷な生き物なんや。それが死刑制度だろう。食肉だって、どこかの知らない牛だから、こうしておいしく食べられる。サトウ牧場のシンノスケくんいう、穏やかでサッカーボールが大好きな牛ちゃんでしたって書いてあったら食べにくうてしゃーないやろ」

 全員が黙って目の前のハンバーグの残りを凝視した。ゴンドーフはアルコールも入っていないのに饒舌だった。
「牛肉は食べるけど、もし目の前にケガした仔牛が寝っ転がってたら、俺は助けるで。そういうことやろ。絶対ダメな殺人事件だって世界では毎日起きている。その一件一件に心を痛めていたら、こっちが生きていけへん」
「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない。やさしすぎると生きづらい……か」
 クゲがチャンドラーを引用してため息をついた。
「それと、考えすぎると食べづらい、や」
 マガジンは、ハンバーグの最後のひと切れを勢いよく食べた。

「俺が言いたいのはな」
 ゴンドーフはとなりの塁に向かって言った。
「自分で殺さなくていい社会や時代に生きているんやから、食べられる分は食べたらいいということや。狩りをしないと生きていけない時代に生まれていたら、生きるのに必死で、そんなことに悩まへん」
「でも、いまは肉を食べなくても代わりのもので生きていける時代やからなぁ。むつかしいわな」
 食べ終えたクゲが、フォークとナイフを揃えてプレートに置いた。
「代替物で満足できる人はそうしたらええねん。結局、自分の満足度や幸福度の問題や。俺にはわからん。
 人を殺すのは絶対×なんやけど、それは『俺は絶対に人は殺さない』と信じてそれに従えばいいのであって、マックスがイモータン・ジョーを殺すのは△、つまりわからない、でもいいんやないか?」
 塁の薄い胸を指でつんつんと突いて、権藤は「俺は絶対に」のところを強調した。「一番ようないんは、『みんなが殺してるから、俺も殺す』や」
「それと、『俺は肉を食べないから、お前も食うな』かもな」
 マガジンが口元を紙ナプキンで拭いて、付け足した。
「それを言うなら『僕は食べるから、お前も食べろ』もいっしょやで」
 クゲが正論を吐いたが、マガジンはなおも抵抗した。
「俺が食べてほしいと思ってるのは、主義の話とは関係ない。旨いからや。塁におっきなってほしいからや」

「世の中のほとんどは△なのかもしれへん。その△を『〇だ!』『×だ!』って決めつけて押しつける人間が多いのが、この世がややこしい原因なのやろうな」
 ジュンの言葉に、クゲがマガジンを指さした。マガジンがその指を掴もうとすると、クゲはさっと手を引っこめた。
「〇とか×は、多数決がいつも正しいとは限らないしな。なぁ、塁?」
 ゴンドーフは塁を見たが、塁は最後のおじさんたちのじゃれ合いには飽きたのか、グラブを弄んでいた。
「ごめんごめん。ややこしい大人の会話をして。それと、今日はまだ硬いグラブで申し訳なかったな。でも、またキャッチボールしよな」
 マガジンがテーブル越しにグーを差し伸べると、塁はゴツッと音がするくらい力強く返してきた。
 結局、塁はハンバーグセットを半分くらい食べ残した。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?