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僕たちのフィルダースチョイス 1/17

「フィルダースチョイス」とは、フェアゴロを扱った野手が一塁で打者走者をアウトにする代わりに、先行走者をアウトにしようと他の塁へ送球する行為をいう。

(公認野球規則2・28より)

     1

田辺が気配を感じて振り向くと、ちょうど彼が巨体をかがめてのれんの下から現れたところだった。
「マガジン、遅いわ」
「おす、おす」
 宇賀神鋭介、通称マガジンは、田辺純の言葉は無視して、一堂に挨拶をした。

 夜の八時を少し過ぎた店内は、混雑のピークを迎えていた。壁には、あさりの酒蒸し、えのきベーコンのバター焼き、ハムカツ、賀茂なすの揚げびたしなどなど、手書きされたメニューの札が貼ってある。
「ビール? ビール? ハイボール?」
 宇賀神は、ほかの面々が飲んでいるものを確認してから、
「ほな、ジンジャーハイボール」
と、おねえさんに注文を告げた。

「いきなりそんな甘いもんよう飲めるよな」
 四人掛けテーブルで、田辺の向かい側に座るこの男は権藤忠生。ギャンブルばかりやっているので映画『スティング』のポール・ニューマンにちなんでゴンドーフと呼ばれている。が、ポール・ニューマンと顔は似ても似つかない細面のメガネである。
「あ、おねえさん、辛いほうね、辛いほう」
 マガジンはジンジャーエールの指定に念を押して、ネクタイを緩めた。

「おう、クゲ。なんや今日も飼い猫が死んだみたいな顔しよって」
 向かいの藤原は、はにかんだような表情をして、指先にはさんだ煙草に火をつけた。
 彼は藤原という苗字に、よりにもよって実之などという大層な名前がついているので、誰ともなしにクゲと渾名されている。もしかしたら、二十年前には「あいつ、白くてなよっとしてて、公家みたいなやっちゃな」と陰口されていたのが、いつの間にかオモテに出ちゃって、そのまま通り名として定着してしまったのかもしれない。
 それについてクゲ本人がどのように思っているのかは、今さら誰も訊かないし、たとえどう思っていようと変えようがない。

 マガジンが出されたばかりのジンジャーハイボールをグビッとひと口飲んでから、「ハイ、おつかれさん」と差し出した。
 高校時代からのいつもの四人は、乾杯の儀式もおざなりで、ただ黙って四つのグラスをガチャリと合わせた。

「令和はじめての乾杯やな」
 つい先日改元された元号に田辺が言及すると、
「イチローも引退してしもたし、ひとつの時代が終わったな」
と権藤が応じた。
「東京ドームでの引退試合観たかったなぁ。マガジンの会社で裏から手ぇ回してチケット取れへんかったん?」
 権藤の問いかけに、
「ゴンドーフ、我が社を見誤らんでくれ。そないな力あるかいな。デンツーさんやあるまいし」
と、マガジンがほっけの塩焼きに箸を突き立てながら答えた。
 宇賀神は中堅の広告会社で営業マンをしている。釣りにでかけて大物が釣れるとクライアントのところに持っていくようなトラディショナルな営業スタイルで、それなりに成績を残している。いまのは比喩ではなくて、本当に釣った魚を持って、宣伝部長だとか副社長のところにのこのこと馳せ参じるのだ。
平日の昼にそんなはずはないのだが、「いま釣ってきました! 獲れたてですので、まっさきに部長にと思いまして」などと、大きな体で現れると誰でも苦笑まじりに受け入れてしまうらしい。マガジンにはそういう憎めないところがあった。

「まぁ、もしチケットが取れてたとしても、ゴンドーフには渡さん。ジュンのところの生徒たちでも招待するやろな」
 田辺純は学習塾の雇われ塾長をしている。小中学生が対象で、進学塾というよりは補習塾として、学校の勉強についていけない子たちが通うところだ。
 以前は百貨店に勤めていたが、古いやり方と硬直した組織に疑問を持ち、もっと創造的な仕事がしたいと仕事を辞めた。
 創造的であることに憧れはあっても、田辺自身になにかクリエーティブな能力があるとは考えておらず、どうしていいかわからないまま、知人の紹介で就いたこの職にとどまり六年になる。
 クリエーティビティにコンプレックスがある人間の常として、田辺は口ひげを生やしている。百貨店時代には口ひげどころか、剃り残しがあっても上司からネチネチ言われたものだが、いまはただの支店の塾長とはいえ、比較的大きな自治権を与えてくれる寛容な会社なので、服装も自由だし、ひげを生やそうが髪を伸ばそうが構わなかった。が、さすがに四十手前になって髪を伸ばそうとは思わない。
 こざっぱりと短髪にして、唇の上と顎の毛だけ伸ばして頬はきれいに剃って整えておくと、わりと生徒のお母さんたちからも評判がよい。

 田辺はその顎ひげを引っぱりながら言った。
「クゲのとこのお父さんは、具合のほうはどうなんや?」
 藤原の父親は、主に府内の農産品を加工して製品にする、小さな食品工場を営んでいる。先月、軽い脳梗塞を起こして入院していた。
「今日も病院で会うてきたけど、大丈夫みたいやね。後遺症もないし、体は元気。ただ……」
 クゲは、灰皿に煙草の灰を落として、燃え口を灰皿の内壁にくるりと撫でつけてかたちを整えた。「自分が倒れたことがショックみたいで、ちょっと気弱にはなってるな」
「おやじさんも、もうええ年やもんな」
 権藤が言ってから、京こかぶの漬物を口に放り込んだ。
「七十が見えてきてるから、まだ社長やってるだけでも大したもんやで」
「はやくラクさせてあげな、あかんのとちがうか」
「濡れた和紙でもそっと顔に、な」
「そのラクちゃうやろ」
 マガジンの縁起でもない冗談にゴンドーフが応じると、クゲは気を悪くしたふうもなく、笑っていた。

 三十八才の男たち四人が集まると、たいがい仕事の愚痴か、親の老い、そして自分たちの体の不調が話題になってしまう。
「この前、入院してる社長の代理でゴルフコンペに僕が出ることになって行ったんやけど、もうきてるで、四十肩」
 クゲは自分の父親のことを社長と呼ぶ。右肩をぐるぐる回しながら顔をしかめた。
「俺も結局、野球で痛めた膝をずっと引きずっていて、釣りよりもハードなことはなんもでけへんわ」
「釣りのどこがハードなんや」
 ゴンドーフのひと言にマガジンが大袈裟に反応した。
「ハードなの! ジブンのは知らんけどな、俺の釣りはハードなんや」
と言って、ビチビチ跳ねる大物を胸に抱え込んであたふたする仕草を演じた。
「せやな。それをクライアントにお届けするまでが釣りやからな」
 ゴンドーフがメガネの奥に笑いジワを寄せて、皮肉っぽく言った。

会話がひと段落したときに、田辺がおもむろに話しはじめた。
「サキちゃん、覚えてるやろ? TAの高橋早希子。結婚して、岩崎早希子って言いにくい名前になったけど」
 TAというのは、ティームアシスタントのことで、いわゆる高校野球のマネージャーのことだ。
 四人がかつて所属した高校野球部の顧問だった野上が英語教師で、「マネージャーいうのは、監督のことや。だからうちではティームアシスタント、TAと呼ぶ」と譲らなかったのだ。

 早希子は、世の中一般としては岩崎早希子の方が通りはいいだろう。彼女は高校を卒業後、アメリカの大学へ進み、英語を覚えて帰国したのち、東京でFMラジオのパーソナリティになった同級生だ。
 最近ではエッセイストとしても活躍していて、有名人というほど有名ではないが、メディアにもちょこちょこ名前が出る存在だった。
 離婚をして、本当は高橋姓に戻ったはずだけど、岩崎として定着してしまったので、そのままの名前で活動している。
 彼ら四人にとって早希子はいつまでも高橋早希子であり、サキちゃんなのであった。

「サキちゃんがどないしたんや?」
 ゴンドーフが先を促した。
「うん、たぶんな、うちの塾におる高橋塁くんいう生徒がな、サキちゃんの息子なんや思うねん」
「え!」
 クゲが煙草を揉み消して田辺を見た。
「なんでわかるん」
「だって書類の保護者欄に高橋早希子って書いてあるし、顔もどことのう似とるからな」
「サキに似とるなら男前か?」
 マガジンが身を乗り出した。
「たまに雑誌とかでサキちゃんを見かけるけど、いまでもべっぴんやもんなぁ」
 ゴンドーフが遠い目をする。
「お前、サキのこと好きやったもんな」
 権藤は「そやな」とあっけなく認めたが、田辺は心の中で〈それはちがう〉と思った。〈そうやない。ゴンドーフだけでなく、僕も、マガジンもクゲも、みんな好きだったのとちがうか〉
 少なくとも田辺はサキのことが好きだった。大好きだった。いつか彼女にこちらを振り向いてほしい、この腕の中に抱きたいと思い焦がれ、胸が苦しくなる対象だった。
 あんなに真っすぐで、思いやりとユーモアがあって、美しい女性を好きにならないわけがないではないか。いや、好きの種類や度合いはちがうかもしれないけど、ほかの三人もそれぞれサキちゃんのことは好きだったはずだ、きっとそうだと田辺は考えている。

「まぁ、たしかにサキちゃんに似たかわいらしい顔をしているよ。目元なんか特にな。でも、いま言いたいのはそういうことちゃうんや」
 田辺は三人を見回した。彼らはなにも言わず見返した。
「ちょっと問題がある子やねん」

     2

「問題があるて、どういうことや。毎月の月謝を握りしめてパチンコ通いでもしてるんか?」
「それはお前やろ、ゴンドーフ」
 田辺が冷たく言った。
「ほななんや。獲れたてですぅ! いうて十キロのカンパチでも抱えて塾に来てまうのか?」
「それはマガジン、お前やろ!」
 クゲがクククと笑った。それを見て宇賀神は満足そうに目を細めたが、おもむろに神妙な顔をつくってつづけた。
「教室で暴れんのか。奇声を上げたり、ほかの子をシバいたりとか」
 田辺はジョッキからビールをぐっと飲んで喉を潤してから話した。
「どう言うたらええか、その反対やな。およそコミュニケーションがとれへんねや」
 ふむ、と声にならない声が三人の誰からともなく漏れた。

「予習もやった形跡がないし、話をふってもまともな返事は返ってきいひん。友達もおれへんみたいやし、最近では教室でもほかの生徒からいじられてる感じがあるんよな。とにかくぜんぜん溶け込めてへん」
「発達障害いうやつかもしれへんな」
 クゲが口を開いた。
「うちの子も小さい頃な、成長が遅いような気がしていろいろ調べたことがあるんや。大きく括れば脳機能障害いうことになって、その中にはADHD、自閉症スペクトラム、PDD、LDとかなんとかの診断名がある。
 せやけど、それらはきれいに分かれているわけではないし、混じり合って現れることもあるし、白黒はっきりしないグレーな部分が大きいて、むつかしいみたいやな」
「お前のところの子、なんやっけ、ヨシユキくんか。彼の場合はどないやったんや?」
 権藤が尋ねた。
「結論から言うと、うちの善之は発達障害とは診断されへんかった。『そういう傾向を持っているとは推察されますが、医療としてなにかが必要とは私は診断いたしかねます』いう歯切れの悪い言い方やったけど、まぁそうなるわな。実際、いまはなんとかふつうに中学生やってるで」

「小学校のときにおった塚本正彦て覚えてるか?」
 宇賀神が、田辺に問いかけた。ふたりは小学校から高校まで同じ学校に通ったのだ。
「ああ、覚えてる。ケッタイなやつやったな」
「せやろ。あいつはいまの時代におったら、間違いなく発達障害て診断されてるよな」
「どんなやつやったん?」
 小学校時代を共有しない権藤が訊いた。宇賀神が額にしわを寄せながら記憶をたどった。
「説明がむつかしいんやけど、さっきジュンが言うた『コミュニケーションがとれへん』いう表現がしっくりくるな。なんかふつうちゃうねん。表情がなくてな、たまに笑うことはあるねんけど、人とあまり交わらへん感じやったな」
「ぜったいにノリツッコミとかできひんタイプやな」
「そんなんできる方が特殊や」
「せやけど、そないな子はクラスに一人くらいおったよなぁ」
 権藤が自分の子供時代を思い出しつつ言った。「俺の学校にも土森一矢いう子がおってな、先生から毎日叱られて、それでもなんぼほど叱られても宿題をやってきよらへんねん。なにか大きなものへの抵抗なのかいうくらい、ほんまにしてきいひん。べつにむつかしい宿題ちゃうねんで? 漢字ドリルとか、やればすぐできる類のもんや。
 彼ももしかしたら学習障害いうやつやったんかもしれへんよな」

 宇賀神がメニューに伸ばしかけた手を止めた。
「俺のところにもまだおった。そういう障害と関係があるかどうかはわからへんけど、異常なウソつきがおったわ。『うちの兄貴は湖北省でカンフーの修業してる』とか言うてな。琵琶湖の湖北ちゃうで、中国の湖北省やで」
「してるかもしれへんやないか」
「いや、そういう確認できひんウソばっかつきよるねん。中学に上がってから兄貴を見たけど、肥えたロン毛やったぞ。ゼッタイちゃうわ。
 ほかにも『倉庫にゲームボーイが山積みであるから今度あげる』とか。『え、ちょうだい』てグイグイ迫ったら『鍵なくした』とかウソにウソを重ねよるねん。困ったやつやったな。いまはどないしてるんかな。詐欺師か小説家にでもなったかな」
「お前の学校は困ったコだらけか。お前のことも今ごろどこかで言われとるで。『マガジンいうデカい木偶の坊がおってな……』て」
「はじめまして、木偶の坊鋭介と申します。て、やんごとない感じに聞こえるやないか」
「それがノリツッコミや言うねん」
「あ、できた……」
 ひとりで感心するマガジンを無視して、クゲがしみじみと言った。
「ほんま、ああいう困った子らは、どないしてんねやろな……」
 四人が一瞬沈黙した。

「俺たちの時分はそういう診断名もなかったから、たぶんいまでもなにかと苦労しながら生きてるんとちゃうか。かく言う俺も遅刻が病的にひどくて苦労は絶えへんけどな」
 マガジンがテーブルに両腕の肘をついた。
「今日も遅刻してきたしな」
 田辺が横目でマガジンを見た。
「お得意先に魚持ってったのも、はじめは遅刻の言い訳やったんよ。前の日に釣りしてから飲みすぎてな。朝起きて『やばぁ!』てなって咄嗟に思いついたわけや。こっちも必死やで」
「俺かてギャンブルやめられへんのは、脳の異常なんやろしな。そのまま証券ディーラーになって、職業にしてもうたようなもんや」
 ゴンドーフの言葉に、みんなが納得の表情をした。

「まぁ、とにかく」
 田辺がまとめようとした。「その、高橋塁くんが発達障害を持っているかどうかは、医者でもない僕にはわからん。単に、おとなしい子なのかもしれへん」
「せやな。さっきのお前の話だけではなにもわからん。確かっぽいのは、どうやらサキの息子であるようだってことだけや」
 マガジンが正しいことを言った。
「そう、僕たちもみんなどこか異常な部分を持って、日常生活をなんとか送っているように、彼もなんとかなるのかもしれへん。
 そこで、今日はみんなに頼みがあるんや」

 田辺が居住まいを正した。宇賀神は箸で刺身を二切れいっぺんに掴んだ。権藤は目をパチパチさせた。藤原は煙草の煙を細く静かに吐き出した。
「うちの塾でな、ジブンらに塁くんのための特別授業をやってほしいんや」

(つづく)

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