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ザ ブック オブ マッチズ 1/16

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 革手袋の左手が見つからない。ピックアップトラックの後部座席には、水が三分の一ほど残ったプラスティックボトル、ロデオ大会のワッペンが胸についた上着、箱に入ったライフルの銃弾、その他だれのなにだかわからないものが乱雑にあり、足元には潰したビールの空き缶、長靴、オイルの染みたウェス、キース・ホイットリーのカセットテープが転がっている。が、片方の手袋はない。
「クソが」
 俺は乾いた地面に唾を吐いて、足で土埃を蹴り上げた。

 トラックのうしろに回り、荷台を開ける。それから、倉庫のシャッターを引き上げた。生ぬるい、こもった空気が漏れ出てきて、代わりにモンタナの朝の風が入っていく。

 昨日のうちに入口近くに出しておいた、塩のブロックを両手でつかむ。革手袋をした右手で青い塊の上を、素手の左手で底を支え、腰を落としてから大腿筋を使って真っすぐに起き上がる。ひとつで重量五〇ポンドある。いきなり腰をやっちまったらかなわん。
 それを四つ、ピックアップトラックの荷台に載せる。

 片方だけ手袋をしたままステアリングウィールを握って、ダッジ・ラムを牧場の西に走らせた。
 リアヴューミラーの中で、家屋やショップ(作業場)やブルーハウスが、舞い上がった土埃に霞んでいく。右手前方には収穫した穀物を貯蔵する巨大なタンクが四つ並んで佇立している。

 牧場では牛を育てるだけでなく、大麦、オーツ麦、小麦、カノーラを栽培しているのだ。一部は家畜に食わせ、大半は副収入として売却するためだ。秋になったら、それぞれをグレインビン(タンク)に入れる。
 牛にとって麦は栄養価が高すぎて主食にはならない。エナジーバーばかり食べる人間がいないのと同じことだ。
 そして、いま俺が運んでいる塩のブロックはサプリみたいなものだ。牛の発育にとって、水と草と塩が不可欠なのである。

 鉄条網を張り巡らせたフェンスに両側を挟まれた小径を、一マイルとすこし行ったあたりでトラックを停める。一度降りて、右側にある、丸太の支柱でつくられたゲイトを開けて、トラックに戻る。牧草地の中にトラックを進めて、また戻ってゲイトを閉める。
 もうひとりいればそいつに開閉を任せられるからいちいち降りることはないのだが、手伝いのトビーは、今日は午後からしか来ない。
 ダッジを北に向けて目的地を目指す。と言っても、半マイル×半マイルのこの牧草地に特に目印はないので、だいたいの見当をつけたあたり、というだけだ。牧草地は四分の一平方マイルごとにフェンスで区切って管理していて、うちでは番号で呼ぶ。
 ここはちょうど二〇番だ。
この春産まれたばかりの母牛と仔牛のペアが数組、運転席からの視界に入り、こちらを遠巻きに眺めているのがわかる。
「ほれ、おしゃぶりを持ってきたぞ」
 ダッジを停めると、塩が来たことがわかるのだろう。親子たちが近づいてきた。
 俺は荷台に上がり、塩のブロックをひとつ持ち上げると、牧草が剥げたあたりの土の上に放り投げた。
 あと三つだ。
 こんなことをやっていると、すぐに二時間くらいたって午前が終わってしまう。カウボーイの仕事に通勤はないが、移動時間はバカにならない。

 二〇番の牧草地からさらに北へ向かい、ゲイトをもう三回通る。このあたりの私有地は道であっても舗装されたところは少なくてせいぜい砂利道だが、牧草地よりはずっと走りやすい。
 草に覆われたフィールドは遠くからは平坦に見えても、実際にその上を運転してみると凹凸や溝や背の低い木があって、かなり衝撃がくる。ちょっとした丘になったあたりにさしかかり、ガスペダルをぐっと踏み込んだ。

「クソめ」
 俺はため息をついて、ステアリングを革手袋の手で叩いた。
 北側を東西に走るフェンスの向こう、おとなりさんの土地をうちの牛が一頭、悠々と歩いていやがるじゃないか。しっぽをぶらぶら、ケツを振り振り、呑気に散歩しているようだ。
 どこか破れていたのか、フェンスに目を凝らしつつ、ダッジをそれと並行して走らせる。
 ここじゃなかろうかと思える、鉄条網が錆びて三本のうち下二本が切れた箇所を見つけた。上の一本には、牛の茶色い獣毛がひと塊、引っかかっているのが見える。
 とりあえず、塩の配給とフェンスの修理は後回しにして、牛を追うことにする。
 たまにあることだから、となりの土地に住むスティーヴンソン家の旦那は文句を言ってきたりはしないだろうが、このまま見失うのも困る。家畜は牧場にとって大切な商品であり、財産なのだ。

 一瞬、牧場に戻って馬を連れてくることも考えた。逃げた牛が複数いるなら、トビーと二頭の馬で追ったほうが効率はいいだろう。群れを左右から挟み撃ちにして、向かわせたい方向へ誘導できる。
 だが、今回はいま把握している限りでは一頭だから、ピックアップトラックでも牛に追いついて、俺の牧場「BMランチ」のほうへ押し戻すことはむつかしいことではない。
 五〇ヤードほど行ったところに金属製の門がある。それを大きく開いて、そのままにする。
 ダッジで左から大きく回り込んで、牛の行く手を遮る。牛は臆病な動物なので、向かってくるようなことはまずない。こちらがゆっくりと距離を詰めると、尻を向けて逆方向へ逃げていく。
 牛の進行方向が右へ逸れたらダッジも右へやって阻む。左へズレたらこちらもさらに左へ。このようにして門のほうへ歩かせる。
 俺が馬に乗っていたほうが、牛の急な動きに素早く対処しやすいし、四輪のタイヤで通れないような溝があっても乗り越えられる。クルマだと、牛が突然向きを反転して走り出した場合、最小回転半径がどうしたって一六フィートほどは必要になる。ところが、馬ならその場で一八〇度転回することができる。
 牛を捕まえなくてはならない局面でも、乗馬していれば片手で手綱を持ち、もう片方の手でロープを操り、牛を捕らえられる。二〇世紀も終わろうという今日においても、牛を育てる仕事に馬は不可欠なのである。

 逃亡牛はあっけないくらいすんなりと、門からBM牧場の牧草地に戻った。
 俺は落ちていた太い木の枝を拾ってきて、錆びて朽ちたフェンスの箇所に立てかけた。再び家畜が逃げないための予防と、近々修理をするときの目印を兼ねている。
キャメルに火を点けて一服した。
「やれやれ。塩のブロックがあと三つだったな」

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 家屋に戻って水を飲んだ。六月だというのに、今年はやけに気温が高い。

 空には機械が等間隔に並べたみたいに綿雲がぷかぷか浮かんでいる。フォークで搔き集めてでかい雲の塊にして、ここらでひと雨降らせてやりたいものだ。そうすれば牧草も勢いづいて伸びてくれる。

昼までまだ一時間とすこしあるから、さっきのフェンス修理をやっちまうか。そのためには、ハンマー、プライヤーズ(ペンチ)、U字のステイプル(釘)、ひと巻きの有刺鉄線、それからワイヤーストレッチャーがいる。
それら一式をピックアップトラックに積むためにショップへ歩き出すと、こちらへ近づいてくる自動車が砂利を踏みつつ敷地に入ってくるのが聞こえた。紺色のフォード・トーラスはトビーのものだ。ただし、俺は元の色を知っているが、いまは埃をかぶって紺色だか灰色だかよくわからない。

 トビーがダッジの横にトーラスを停めて出てきた。
「今日は遅れてすみません」
 かろうじて二十一才のくせに、クアーズライトのロゴが刺繍された野球帽をかぶっている。
「妹は大丈夫だったのか」
 九才になる妹を病院に連れて行くから今日は午後から来る、ということだった。
「はい、熱があるだけで、休めば治るだろうってことでした」
「まだ午後になっていないがいいのか」
「妹の寝顔を見てるより、牛のほうがマシなので」

俺は訳あって、BM牧場をもう十五年もひとりで運営している。近隣の牧場や農家の友人たちの手を借りながら、休む間もなく必死にやってきた。夏の間だけ臨時雇いを迎えることもあり、トビーもそんな男手のひとりだ。
 高校を中退してぶらぶらしているところを、俺が声をかけた。学校を辞めた理由は詳しくは知らない。
 だが、高校で人気者になるようなタイプではないことは俺にもわかるので、尋ねたことはなかった。

 トビーは、肩に届くくらいの長髪だが、帽子をとると前髪や頭頂部はさほど長くない。いわゆるマレットと呼ばれる、この国の田舎者特有のヘアスタイルをしている。
 俺はといえば、髪の毛は馬用のバリカンを使って自分で刈るくらい、ファッションに関する知識も興味も、牛糞から発見される砂金ほどしかない。つまり、まったくない。
 だから、彼の髪型に対する評価は保留するが、指示したことは一生懸命やろうとするので、見どころはある若者だと思っている。

「フェンス修理に行くが、お前も来るか」
 トビーに問いかけると、彼は一度クルマに戻って、トマトや玉ねぎやズッキーニなど野菜がいっぱい入った紙袋を取り出し、こちらに見せた。
「近所の農家からもらったので、今日は僕が昼メシをつくっておきます」
「わかった。そうしてくれ。正午過ぎには戻る」
 俺は道具一式をピックアップの荷台に載せて、先ほどの現場に向かった。
トビーはいつも朝八時にやってきて、その日の仕事が終わると帰っていく。だいたい日暮れ前には終業するように計らっているつもりだ。

 昼食は基本的には俺が手早くつくって、彼と同じ食卓で食べる。しかし、俺の料理といえば、肉を焼いて食べる、野菜を焼いて食べる、卵を焼いて食べる、と、ひたすら焼いて食べるだけなので、彼には不満があるのかもしれない。
 トビーの両親はともに教師でたまに帰りが遅いこともあるようで、彼が妹のために夕食を用意することも珍しくないという。
 教師の家に生まれた若者が高校をドロップアウトしてしまうのは皮肉なことだが、牧場を捨てた牧場主のせいで、俺にはカウボーイ以外に選べる人生などなかった。
 鉄条網が破れた場所に戻ると、俺は輪っかにした有刺鉄線を肩にかつぎ、手にはバケツに入れたハンマーとプライヤーズとU字ステイプル、そしてワイヤーストレッチャーを持って、まさかほかに逃亡牛がいないかあたりを確認した。
 三本走った有刺鉄線のうち、一番上の一本の棘にへばりついた獣毛を引きはがして放り捨てる。
 切れた二本目の両側を見て、錆びて使い物にならないあたりをプライヤーで切り落とす。切った針金は牛が食うといけないので、U字ステイプルを入れたバケツに放り入れて持って帰る。

 切れた鉄線の一方と新しい有刺鉄線を撚り合わせて接続する。だいたい目分量で必要な長さをとって有刺鉄線を切る。そして、その端と、切れた右側の一本の端をワイヤーストレッチャーに噛ませる。
 ワイヤーストレッチャーは、平たい棒状の器具で、切れた鉄条網の両方の端を挟んでからレバーをギコギコ引くと、テコの原理で先端同士をグググッと引き寄せられる。それから、プライヤーズを使って結び合わせて、一本できあがりだ。一番下の一本にも同じ作業を繰り返す。

 有刺鉄線を撚っている間は、ワイヤーストレッチャーは草の上に寝かせて置かず、木の支柱に立てかけるようにする。この作業をするたびに、トビーにも口を酸っぱくして伝えている。
 俺の父親に同じようにしつこくそう教えられたからだ。
 伸びた草の上にワイヤーストレッチャーを横たえてしまうと、立ち上がってからたやすく見失う。俺も昔は、なくしかけて三十分もあたりをウロウロ探し回ったことがある。

 ワイヤーを二本補修して、支柱もチェックする。支柱には上段中段下段の三本の有刺ワイヤーがU字ステイプルで固定してあったが、鉄線が破れたはずみで、二段目が緩み、下のものは弾け飛んでいた。
 飛んだ金具も牛が食わないように草の中から探し出してバケツに入れる。
 ハンマーでU字ステイプルをしっかり叩き直してワイヤーを固定して完了。カウボーイの仕事は、フェンスだけでなく、機械も、建物も、壊れる、直す、壊れる、直すの繰り返しだ。家畜の病気も、ある程度までは自分で投薬したり注射をしたりして治療する。
 壊れた家族の直し方は、いつまでたってもわからない。

(つづく)

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