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僕たちのフィルダースチョイス 7/17

     12

 柴山高校の校庭には南の端に一本だけ飛びぬけて背の高い樹があり、そのイチョウは校章のモチーフにもなっていた。
 それがすっかり葉を落とし、枯れ木であるかのような寒々しさを湛えていた。

 高校二年の冬休み、マガジンが膝の手術をした。彼は左膝に慢性的な痛みを抱えていて、半月板にたまった水を抜く処置や痛み止めの治療は行なってきたが、ついに入院することになったのだった。
 期末試験を無事に終えた田辺は、下校時にイチョウの落ち葉を踏みしめて、その足にやさしい感触に、宇賀神が翌日の土曜日に手術をすることを思い出した。
 そして、日曜日に大阪の大学病院まで見舞いに行ってみることにした。
 電車を乗り継いでからバスに乗って、はじめて降りる大学病院前駅から丘を上がると病棟が道路の両側にいくつも並んでいた。
 いずれも白いこれら建物のどこかに宇賀神がひとりでいると思うと、なんだか彼がそこに囚われているような感じがして、不憫に思えた。

 田辺はそばにあった案内図で整形外科が入っている建物を探すと、ポケットに手を入れて歩いた。冷たいビル風が横面を叩いてきて、顔を背けた。
 期末試験期間中は部活動がないため、クラスがちがう宇賀神とまともに話す機会はなく、膝に関する詳しいことは聞かされていなかった。
 リハビリが必要になるような重篤なものなのか、まさか選手生命が脅かされるような手術なのか。
 マガジンは、チームのムードメイカーであり、三番サードの主力選手だから、夏の甲子園を目指す柴山高校野球部にとって不可欠な男だった。
 受付で面会者であることを告げると、四階の四〇四号室であると教えられた。
 エレベーターで上がり、部屋の前に立つと、女の人の笑い声が聞こえてきた。母親だろうか? 田辺はドアに近寄って耳をそばだてると、そうではなさそうだった。声が若い。
 ノックするのも忘れて、ドアを静かに開けてしまった。

「サキちゃん!」
 部屋は個室で、早希子が宇賀神とおしゃべりして笑い合っていた。
「なんやジュンか」
 こちらに背中を向けていた早希子よりも早く、マガジンが田辺に気づいた。
「あ、ごめん」
 田辺はまず謝ってしまった。それはノックをしなかったことよりも、二人の会話を邪魔したように思えたからだった。
「田辺くんも来たんや」
 早希子は屈託のない笑顔を見せて、小さく手を振った。
 田辺はぎこちなくならないよう細心の注意で笑顔を返した。そして、持ってきた品を宇賀神に渡した。
「はい、マガジンにマガジン」
「おっ、ジュン、サンキュー」
 田辺は週刊漫画雑誌を差し入れた。

「痛いんか?」
 吊られた左脚を指さして尋ねると、宇賀神は、
「いまは大丈夫。これから麻酔が切れると痛むんちゃうかな」
と、ひと事のように答えた。
「で、どうなんや」
 意味を察したマガジンは話が早かった。
「いや、サキも監督に言われてそれを訊きに来てくれはったんやけどな、結論から言うと、二月には復帰するつもりや」
 田辺は安堵して、大きく息を吸い込んで静かに吐き出した。
 宇賀神の説明によると、こういうことだった。
 彼の膝の半月板には損傷が見られたが、症状としては比較的軽度だった。半月板というのは関節の骨と骨の間にある軟骨で、クッションとしての働きもするし、膝の曲げ伸ばしがスムーズにできるよう潤滑剤のような機能もある。
 しかし、一度損傷した半月板は復元しないため、この場合、選択肢は大きく二つ。
 いままで通り、いわばごまかしながら競技をつづけるか、もしくは手術に踏み切るか。
 痛み止めを打ったり、膝を気にしたりしながら野球をしていても悪化していく可能性は充分ある。最悪の場合、大事な大会のときにプレイできなくなってしまう。
 手術をすれば一時的にフィールドから離れることになるが、幸い損傷の位置と状態が縫合に適していたため、切除することなく治療が可能で、リハビリ期間もぐっと短くできるだろうという医者の見立てだったのだという。
 もちろん、なにもかもが当初の期待通りに進むとは限らないが、宇賀神はそれに賭けたのだった。
 田辺は、マガジンが迷いも恐怖も飲み下して、人知れず大きな決断をしていたことに言葉を失った。
「せやから、年末からリハビリに取り組んで、早ければ二月には練習に復帰できる思うで。先生も俺もそのつもりや」
 先生というのは医者のことだろう。
「そんなわけで、サキ、野上監督にも伝えておいてな。心配いりません、て」
「うん、よかったね、マガジン」
 早希子は、宇賀神のことを男子生徒と同じくマガジンと呼ぶ。宇賀神は早希子のことをサキと呼び捨てにする。
 自分は田辺くんと呼ばれることに、田辺は微かな嫉妬を覚えた。
 先ほど病室に入る前に、ドアの向こうから聞こえてきた笑い声が耳の奥に蘇った。
 マガジンはたのしいやつだからいつも人を笑わせているし、ふたりが付き合っているわけではないことは知っている。でも、もしかしたら、お互いに好意を持っているのかもしれない。
 もちろん、そんな野暮なことを尋ねるのは、田辺のプライドが許さなかった。

 三人で、期末試験の感触とか冬休みの計画とか、ひとしきりおしゃべりをした。
 看護師が部屋に入ってきたのを機に、田辺と早希子は引き上げることにした。
「ほな、マガジン、また経過を教えてくれよな」
「おう。明後日に退院するから、松葉杖で学校に行けるようなら、監督にも直接話したいし、ジュンにもそこで会うやろ」
「はやくよくなってね」
「ありがとう、サキ」
 宇賀神は横になったまま、ドアを出ていく早希子にVサインを送った。
 病院を出ると、突然早希子とふたりきりになったことに田辺は気づいた。変な気まずさを感じた。学校の外で彼女と会ったことはなかった。学校の中でも、ふたりだけで長い時間を過ごしたことはない。
 柴山高校は制服がないから、彼女の私服は見慣れないわけではないが、学校にいるときとはどことなく装いがちがうように感じられた。女性の服などなにもわからない田辺には、それのどこがどうちがうのかは判然としなかった。
 早希子は、辛子色のダッフルコートに、足元は編み上げの赤いブーツを履いていた。屋外の風に撫でられて、慌ててコートの前のボタンをかけ合わせる彼女を田辺は見ていた。見方によって、子供っぽくも大人っぽくも見えた。

「バス?」
 丘の下の停留所の方角を指さして田辺は訊いた。
「いえ、駅まで歩いて、お母さんに頼まれたものを買いに行くの」
「そしたら、僕も駅まで行って、電車で帰るわ」
 田辺の家に帰るには遠回りになるのだが、このまま早希子と別れるのは惜しかった。
 坂を下って、左に曲がって五百メートルほど歩いて、大通りを渡ったところに駅がある。田辺はなるべくゆっくりと歩くことにした。
「今日、マガジンに会いに来てよかった」
 サキちゃんにも会えたから、という言葉は心の中だけでつぶやいた。
「うん。手術もうまくいったし、復帰も早く済みそうで、とても安心したわ」
 早希子は明るい声で言って、田辺に顔を向けた。
 笑みを返した田辺の視線の先に、小さな喫茶店があった。
 ちょっとお茶でもしていかない? と気軽に誘える人間だったらいいのに、田辺は早希子が気づくはずもない二秒ほど逡巡しただけで、喫茶店を見送ることにした。

「来年、僕たち三年生やな」
「いよいよ中田くんも本領発揮だし、甲子園を狙えたらいいね」
「そうやな。一馬はほんまにようがんばってる。これは監督には内緒やけど、一馬とは秘密の投げ込み特訓をしてるんよ」
「え! そうなん?」
 早希子は目を見開いて一瞬立ち止まった。
「うん。夜の公園でな」
 田辺は、早希子と秘密を共有したような小さな快感を得た。
 プロ野球への切実な思いと、惨敗する恐怖を吐露した、あの日の一馬の背中が思い起こされた。いつも一心不乱に、しかしどこか淡々と練習に取り組む中田一馬は、滅多に胸中をひとに明かすことはなかった。それはチームメイトにでも監督にでも同じだったはずだ。
「一馬がプロに行けたらええなぁ、と思ってる」
「ほんまにそやね」
 曇り空を見上げた早希子の横顔には、夢見る少女のような好奇心と、母親のような期待感が浮かんでいた。
「あいつにはしっかりと夢があって、ええよ」
「田辺くんにはあらへんの?」
 会話の自然な流れとして訊かれてしまったが、もう見えてきてしまった駅に着くまでに簡潔に披露できるような夢は、田辺にはなかった。
「うん……、まだわからへんね」
 そう答えるしかなかった。「サキちゃんは?」
 田辺が訊き返すと、早希子はなにか企むような顔をして、彼のことを上目遣いに見た。
「私な、アメリカに行こう思うの」
「アメリカ⁉」
 予想もしていなかった返答に、田辺の頭の中は真っ白になった。
「そう、大学はあっちに行こうと思って、いま英語の勉強と学校探しをしているところ」
「な、なんで?」
 早希子は一瞬、言葉を探す様子を見せた。
「変なひとをいっぱい見たいねん」
 彼女はそう言うと、目じりに小さな笑いジワを寄せた。田辺は、それをとても魅力的に感じて、胸が詰まった。
「変なひとは、嫌やで」
 こんなにかわいらしい早希子が、変人たちの群れにずんずん入っていくイメージは好ましいことには思えなかった。
「変なひと言うても、変質者とか麻薬中毒者いう意味ではなくて、アメリカて広くていろんな人種がいてはるから、すごくおもしろいひとから、すごく頭のいいひとから、すごく自由で変わったひとまで、いろいろ見たいな、と思って」
「そうか。そないな意味では、日本はサキちゃんには狭いのかもな」
 田辺は自分の口から出た陳腐な台詞に辟易したが、実際、夢も持たずになんとなく大学に行こうとしている自分と、大きな世界を見たいとアメリカ行きを決心した早希子を比べて、己の小ささを嘆きたい気分だった。

 二人並んで切符を買い、駅員にハサミを入れてもらって改札口を通った。自動改札機はまだこの町には来ていなかった。
「そしたら、僕こっちやけど?」
 田辺が一番線の昇り階段を指さして言うと、早希子は二番線の方に顔を向けた。
「私はこっちみたい」
「なぁ、サキちゃん、また聞かせてよ、いろいろ」
「うん。また」
 手を振って歩き去っていく早希子を見て、彼女が遠いところに行ってしまう寂寥感と、置いてけぼりを喰ったような無力感に、田辺は打ちのめされた。
 その場に立ち尽くして、手の届かないところへ離れていく彼女の姿を見送っていると、早希子がくるりと振り向いた。
 両腕を高々と掲げて、お尻を目一杯突き出す格好をした。
「野茂やん!」
 田辺は早希子を指さして、聞こえるように大きな声で言った。
 近くを通り過ぎたサラリーマンが何事かという顔をして、田辺と、その視線の先の早希子を交互に見ていった。
 早希子はバッターを見据えるような挑戦的な眼で、そのままぐりっと上体を捻ると、二人にしか見えないフォークボールを投げてきた。
 それを、田辺はアンダーハンドで軽く掬い捕る仕草をして、そのまま握った拳を小さくぐっと突き出した。
 早希子は満足げな笑顔を見せてから、さっと背中を向け、軽やかな足取りで階段を上がっていった。

(つづく)

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