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長かった10代の終わり、エヴァが想い出になった日。(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想 ※ネタバレ注意)

せっかく人生に一度きりの機会なので、『シンエヴァ』を鑑賞しての感想をまとめて書き残しておきます。あまりにもネタが多すぎて触れられなかったあれこれもありますが、ご了承ください。

[3/10追記] 必ず『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を納得いくまで十分に鑑賞後、お読みください。あなたが感じた「あなただけのエヴァ」を、大切にしてくれると嬉しいです。

[3/16追記] 「Shiro SAGISU Music from“SHIN EVANGELION”」入手にともない、楽曲に言及した箇所へ追記を行いました。

エヴァとともに“オタク”に育った

どうしようもないくらいエヴァが大好きな中学生、それが24年前のわたしでした。

1982年9月生まれのわたしが最初にエヴァと出会ったのは、既に旧劇場版『THE END OF EVANGELION』も公開され『新世紀エヴァンゲリオン』が過去形になりはじめた1997年8月、14歳の晩夏のこと。

精緻な設定考証に基づく近未来メカ描写、多くの難解な用語を纏う神秘的な背景設定、躍動感あふれる戦闘の演出と作画、エレガントながらも勇壮な音楽。そのひとつひとつが、中学3年生のわたしを虜にしました。

そしてそれ以上に、自分と同じ年頃の少年少女が状況に翻弄されながらも必死にもがく姿には、同じく生きる上で悩み多き年頃の自分にとっては並々ならぬシンパシーを感じるのでした。それが高じるあまり、LASやカヲシンといったカプでSSの真似事にも手を出したりなどもしました。

サントラCDの各トラックを自分の好きなように並べ替えてMDに編集したり、フォントを様々に加工して各話サブタイトルや字幕、MAGIをはじめとするスクリーン素材を真似ていたり、周囲もドン引きするほどエヴァにどっぷり浸かる日々だったのを思い出します。

エヴァの劇伴音楽(BGM)をMDに整理しているうちに、サントラでトラック名の後に書いてある「E-6」や「B-1」といった記号が「Mナンバー」という楽曲整理のための識別符号であることを知りました。さらにCD-BOX「S2 WORKS」では、「音楽メニュー」や「一つの楽曲からのトラックダウンによる作り分け・バージョン違い」といった概念も学びました。エヴァの全楽曲を番号で言えるようになる頃には、他作品の劇伴音楽も「Mナンバー」と「バージョン違い」に留意して捉えるようになっていました。

エヴァを真似て文字を加工しているうちに、自分の使っている明朝体とエヴァの明朝体にどうしようもない違いがあることに気づき、書体とは唯一無二の個性を持ったものであることを思い知りました。そこからエヴァと全く同じ書体を探そうとするうちに「書体見本帳」という概念と、書体の探し方を自然に身につけました。そうして「フォントワークスのマティスEB」に自力で辿り着く頃には、気が付けば写研やモリサワといった他社の書体にも精通していました。

その後、わたしが大人になってから“オタク”として携らせていただいた公式/企業案件は全て、「劇伴音楽」「フォント」「作画」という、エヴァに鍛えてもらった知識を活かしたものでした。「好きこそ物の上手なれ」とは、よくいったものです。

このエヴァに育ててもらい仕上がった身をもってエヴァの終局に立ち会えることに感謝しながら、初日初回の劇場に赴きました。

『:序』『:破』『:Q』全ての続編としての『シンエヴァ』

わたし自身が『シンエヴァ』で最も救われたのは、『:破』と『:Q』のいずれをも否定することなく、ちゃんと両方の続編であってくれたことです。実際、人によっては両作の食い合わせの悪さのようなものがあり、同じエヴァファンの中でも『:Q』に対するスタンスというのはかなり深刻な開きが8年半横たわっていました。

多くの人が『:Q』に挙げる、戸惑いの要因。助けたはずの綾波の不在。シンジへの怒りを剥き出しにするアスカ。冷淡な視線を向けてくる、ミサト達WILLEクルー。そのひとつひとつに対する明確な答が、『シンエヴァ』ではようやく丁寧に描かれました。

そしてまた『:破』で描かれそして壊れ、『Q:』では触れることさえされなかった人々の営みも、『シンエヴァ』では「第3村」を舞台に徹底的に丁寧に描写されました。「ニアサードインパクト」という地獄に対する「ニアサー」というアラサーじみた軽い略称には、起こってしまったことに向き合って受け入れ前向きに生きていく人々の覚悟のようなものが感じられました。

また綾波が『:破』で周囲の人々と触れ合う中で人間らしい感情と交流を獲得していった流れも、『:Q』においてクローン違いに過ぎないと思われたアヤナミレイ(仮称)によって再現されました。日々の暮らしの中で小さな物事に感動を覚え、赤子を可愛がり笑うことさえできるようになった彼女が、最後にシンジに素直な想いを伝えて、消える。それが、最終的にシンジを突き動かす。

長年深刻な対立を生んだ『:Q』論争ですが、『シンエヴァ』に至ったいま俯瞰してみると見事な止揚で10年以上の時を超えて繋がったように思えます。

音楽面でも、そのことは窺えました。序盤を除いてほとんどTV、旧劇場版、『:序』『:破』との繋がりがなく新曲が大半を占めた『:Q』と異なり、『シンエヴァ』では第3村の描写を中心に『:破』でも使用された『彼氏彼女の事情』BGMが再び使われました。

その中でも特に「C-1ギターテンポアップ」(*3/16追記: 「Music from」3-14 “soul love: guitar to orchestra segue”)が使用されたのは象徴的だったと言えます。『:破』において中学生達の楽しい日常を彩った「C-1」の別バージョンで、『カレカノ』追加録音楽曲のひとつです。序盤よりややテンションが落ち着いた後半エピソードで多用されています。『:破』の楽しかった日常はニアサーによって決して失われたわけではなく、生き残って第3村で生活を営む人々によってちゃんと繋がれているということが音楽でも語られています。同じく『:破』で使用された心情曲の「カレカノA-8」(*3/16追記: 「Music from」1-07 “prettiest star”)「カレカノA-9」(*3/16追記: 「Music from」1-08 “karma”ほか)も、シンジとケンスケのやり取りのシーンなどで再び使われました。

また終盤、初号機で出撃しようとするシンジに北上ミドリと鈴原サクラが銃を向けるシーンでは『:序』のEM02が装いを変えて使用(*3/16追記: 「Music from」2-09 “i'll go on loving someone else =version orchestre=”)されていたのも印象的でした。これは『:序』の序盤でエヴァに乗ることを躊躇うシンジのシーンで使用されていた曲で、もともとTV1話の当該シーンで「A-6」が使用されていたところ、『:序』では全く別の新曲として作られました。新劇場版ではここから始まったシンジとゲンドウの対峙が、14年の時を超えて同じ二つの曲で繋がったわけです。

REVIVAL OF “THE END OF EVANGELION”

『シンエヴァ』ではいわゆる「旧劇場版」、『EVANGELION:REBIRTH』そして『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』のリベンジともとれる描写が多数散見されます。

十字架から降りてくる「エヴァンゲリオンイマジナリー」はわたしの見間違いでなければ旧劇場版のリリスが原画やタイムシートのレベルで流用されていますし、対照的に巨大レイは3Dで睫毛までモデリングしたリアルな頭部CGが起こされ当時とは全く別方向に強いインパクトを残しました。

そして旧劇場版「甘き死よ、来たれ」のシーンで使用された撮影台に大量に重ねたセル画を1枚ずつ取り除きながら撮影したカットに至っては、フィルム自体をそのまま流用しています。

また旧劇場版のラスト、波打ち際に残されたシンジとアスカのシーン。「気持ち悪い」というあまりにも有名なセリフとともに唐突に「終劇」の字幕が出てくる忘れられない幕切れですが、同じシチュエーションを、『シンエヴァ』ではヒトになり成長した姿で現れたアスカに対してシンジが感謝とかつての想いを伝えケンスケの元に見送るシーンとして上書きされています。(話飛びますけどあそこのアスカの赤面顔がかわいすぎてヤバい)

また最も象徴的だったのは、旧劇場版「甘き死よ、来たれ」のイントロで使われた「TVシリーズ全話とEOE時点での劇場全作品サブタイトルラッシュ」を再演したことでしょう。今度は旧劇場版に続いて「新世紀エヴァンゲリオン」のタイトルロゴを出し、新劇場版各作品のタイトルとアイキャッチを順に出していきました。この中で「NEON GENESIS」の英題もセリフの中でタイトル回収されています。

新劇場版が始まった時、これは「いずれも不本意な形で終わったTVシリーズと旧劇場版を否定して、三度目の正直として出直すもの」だと解釈していました。総監督声明にあった「くり返しの物語」とは、そういうことであると。

しかし、実際は違いました。本編中に、サブタイトルラッシュという形でTVシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』『THE END OF EVANGELION』そして『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が存在した証し、決して消えることのない痕跡を刻み込み、全てを背負って送り出されたのが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でした。

全てのエヴァは、否定されない。ここに至るまでの紆余曲折もまた「くり返しの物語」「何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話」「わずかでも前に進もうとする、意思の話」なのだと気づかされました。

旧劇場版を直視して背負う、旧劇場版をやり直す覚悟は、音楽からも窺うことができます。

「電車」の中でゲンドウが核心に触れる語りを始めるシーン。ここで流れているのはTVシリーズでは精神世界のテーマとしてお馴染み「BORDERLINE CASE(A-4)」のアレンジ曲(*3/16追記: 「Music from」2-15 “born evil”)です。

実はこれ、新曲ではないのです。「『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』BGM M-13」といい、もともと1997年春に「総集編+完結編」として公開が予定されていた『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』のために1996年12月に録音されていた曲です。発注メニューには「A-4の重いバージョン(合唱、ストリングスメインで)」とあります。しかし本編中では使用されず、曲自体も一部パートの楽器が収録されない未完成のまま、24年もの間ずっと放置されていました。

わかりやすくいえば「旧劇場版の未使用曲が24年越しによみがえった」わけです。それも聴く限りでは当時の音源にほとんど手を加えることなく、そのまま使用されています。新劇場版シリーズではTVシリーズ楽曲は必ずブラッシュアップ、グレードアップして使用されてきたことを鑑みると、このこと自体が異例と言えます。

旧劇場版M-13はテイク1とテイク2の2種類が残っていますが、私の聞き違いでなければテイク1が使われていたように思いました。まあ、正確な情報は3/17のサントラ発売待ちですね。ちなみに「テイク」といっても曲全体が2回演奏されたわけではなく、両者で異なっているのはピアノのアドリブパートのみです。なお「S2 WORKS」には、一部パートをシンセで代用した音源が収録されていますが、これを今回どうしたのかが非常に気になっています。『シンエヴァ』に向けて生楽器で時を超えて録音を行い完成に導いたのか、あるいは24年前の音源をそのまま新作に流用したのか。どっちに転んでも「意味」があまりに大きく、おいしい話です。サントラ発売が楽しみです。

[*3/16追記] 「Shiro SAGISU Music from “SHIN EVANGELION”」が発売され、上記の答え合わせが完了しました。テイクに関しては波形比較の結果、上記の通り「テイク1」のピアノが使用されていることがわかりました。またバージョン(当時の音源か、追加録音を経て完成した音源か)について言えば、「両方正解」でした。詳しくは「Music from~」のブックレットをお読みください。

さらにゲンドウが目論見を阻止されながらもシンジの成長を驚きとともに噛みしめ寂しそうに「電車」を降りていくシーンでは、同じく旧劇場版から「夢のスキマ(A-4ピアノ・おまかせバージョン)」が再使用されました。こちらも当時の録音と完全に同一に聞こえます。この曲は旧劇場版の大トリを飾った曲でもあるのです。初めて見るようなシンジとゲンドウのやり取りに、24年前に全てが一旦終わった時の曲。『シンエヴァ』が、旧劇場版を本気でやり直していることを感じさせてくれました。

この2曲の仲間、「BORDERLINE CASE(A-4)」とその派生曲群はTVシリーズと旧劇場版では何度も何度も何度もくどいほど使われてきて、いわば『新世紀エヴァンゲリオン』の影の面を象徴する楽曲でもありました。それが新劇場版『:序』『:破』『:Q』に至るまでその片鱗さえなかったところ、『シンエヴァ』でようやく満を持して使用されたわけです。

それだけではありません。旧劇場版の未使用BGMには他にも

M-14「重厚な戦闘曲(ストリングス、打楽器の重さ等)」
M-15「愛のテーマ(ピアノ、女性コーラス)」

などが残されています。前者は勇壮なアクション曲、後者は平和な大団円の曲です。これらの楽曲は今回も未使用に終わりましたが、M-14は「もろびとこぞりて」が流れたシーン、M-15は青い海が戻ってきた波打ち際のシーンあるいはラストの宇部新川駅のシーンで流れていても、全く違和感を感じないのです。

これらのことから、庵野総監督は『シンエヴァ』で今までとは違う新しい結末を作ったのではなく、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』への再挑戦、すなわち『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズへの再々挑戦を企図し、当時抱いていた構想をよりグレードアップしてキッチリ踏襲し見事に成し遂げたものであるとわたしは考えています。

砧の中心で特撮愛を叫んだけもの

マイナス宇宙、シンジの記憶が形成した世界で戦う、シンジの初号機とゲンドウの13号機。その戦いの舞台となった第3新東京市?は、不自然な形で都市部と住宅地が隣接していたり、カメラの視点がいつもと違って異様に高かったり、背景の山々が妙に平面的だったりと、形容しがたい不安と違和感を残したまま始まりました。

そして、そこが「世田谷・砧の東宝スタジオに組まれた特撮ステージ」であったことが、すぐにわかります。

ここは本当に、日本の特撮に対する監督からの熱烈な愛情と感謝が込められたシーンでした。上記の違和感を全て「シンジの記憶が形成した世界」という建前によってねじ伏せ、「変な絵面」に力技で説明を付加しています。

あからさまにミニチュアとわかるよう形を保ったまま吹っ飛んでいくけど、とても精巧に作られた建物たち。東宝スタジオの焼き印が押された“箱馬”。背景の布に描かれたホリゾント。

いくらかあざとくわざとらしい不自然な点を作りながらも、絶対に天井のライトやキャットウォークだけは映さなかったところに、庵野総監督の矜持を感じさせられました。そして、ローアングルから撮影して天井が見切れないようにするため高架下から覗き込むように撮影する、往年の実相寺アングル。

実際の東宝スタジオであれば天井が高いのでこんなことをする必要はないのですが、天井が低かった東宝ビルト(東京美術センター)で撮られた『ウルトラ』シリーズの故事に倣ったものと思われます。

そしてミサトさんの部屋を建て込んだセットの壁をぶち破って見えたものは、「№8」と書かれた備品。ああ、そうか。ここはかの円谷英二監督も愛した聖地・東宝砧撮影所の第8ステージなんだ。わたし達が今まで見てきたエヴァは、ここで撮られていたんですね。嬉しいな……。

様々なエヴァの「着ぐるみ」が壁に掛けられていたのも、“怪獣倉庫”に対する強いオマージュを感じました。その他用途は不明ながら面白そうな機材もたくさん登場しました。

エヴァが終局を迎えるたびに、TVシリーズではコンテ撮や台本を映してみたり、旧劇場版ではセルを裏返しにしたり劇場に集まった観客を映してみたりと、「お前が見ているエヴァというのは、所詮単なる作り物にすぎない。今すぐ現実に戻れ。」というメッセージをあの手この手で発してきました。

しかし今回の『シンエヴァ』が決定的に違ったのは、そこに「シンジの記憶が形成した世界」という根拠を与えたこと。そして、特撮への愛と敬意があふれる、「エヴァは所詮単なる作り物だけど、もしもこういう作り物だったとしたら面白いだろ? そう考えると現実だって悪くはない。」という今までとは違う前向きで温かいメッセージが読み取れる点だと思います。

静止した線画の中で

戻ってきた青い海。波打ち際に座り込んで静かに誰かを待つ、シンジ。そして世界は色を失い(動画)、動きを失い(原画)ます。そこへマリの8+9+10+11+12号機が現れ、最後に彼を連れて新たな世界へと旅立ちます。

アニメーションが壊れていく手法はTVシリーズ最終話でも見られましたが、今回は違いました。どこにも決して「手抜き」がないのです。座り込んだシンジと波打ち際のリピートである以上、最初に出した色までついた2カットをただリピートすればいいものを、わざわざ様々な中間素材を駆使して余計な手間を踏んでいるのです。

またマリが現れて以降も鉛筆タッチながら完全に中割り動画も揃った状態で動いていて、かえって普通の色つきカットよりも手間がかかっているであろうことが窺えます。

かつてギリギリの状況下で切羽詰まって手を染めてしまった表現に向き合って、手を抜くことなく同様の表現を試みる。そんなリベンジ、あるいは贖罪のような執念を感じました。

エヴァは現実の続き、現実はエヴァの終わり。

シンジが14歳の姿のままなのに、一方で立派な大人として第3村を支えているトウジとケンスケ達。

第3村には『:序』『:破』の懐かしい空気の残り香がある反面、ここにはわたしが同窓会に行きたくない理由そのものが投影されていました。みな立派な親になっていたり、社会で活躍していたりするのでしょう。自分は自分を貫いた自分なりの生き方をしてきたつもりであっても、どうしてもかつての友人と比較して別のifを思い描いてしまい、自分の歩んできた人生を否定する衝動を抑えきれないかも知れないという、そんな焦燥感です。

『シンエヴァ』は、そんな思いを抱えたわたしをも救ってくれました。トウジ、ケンスケとのやり取りひとつひとつが、わたしの心の中で疼いていた痛みを癒やしてくれました。

そして長年カヲル君とともに願い続けてきた、シンジの幸せ。それを見届けてスクリーンの前にひとり残されたときの、切ないけど温かかった気持ちを忘れずに、わたしもこれからわたしなりのペースで前に向かって歩んでいこうと思ったのでした。

母親なんてなれないまま私は生きる

『シンエヴァ』では多くのキャラクターに明確な救済が描かれましたが、中でもミサトさんのそれは大きかったと思っています。

旧劇場版『Air』ではシンジを銃撃からかばって致命傷を負い、ケイジに向かう彼を見送って死んでいったミサトさん。「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょ。」という台詞は、今なお語り草です。そして『まごころを、君に』では「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね。」という台詞までありました。

『シンエヴァ』では、ミサトさんを最後の最後の最後までシンジの保護者兼上官として、そして本当にリョウジ(少年)の母親としてのミサトさんを描いてくれたことが何より嬉しかったです。『:Q』では厳しい態度で接しつつも、実は艦長室に彼のプラグスーツを保管していたミサトさん。「自慢の息子達」の写真を操艦席に飾っていたミサトさん。会えないリョウジに語りかけるときの一人称が「母さん」な、ミサトさん。

最期に語りかけた相手がシンジではなくリョウジ(少年)だったのも、涙が溢れて止まりませんでした。ミサトさんをお母さんにしてくれて、ありがとう。

そして『シンエヴァ』ではミサトさんが戦う理由も、全く変わっています。ミサトさんの父・葛城博士は『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズと旧劇場版ではゼーレに利用されセカンドインパクトで非業の死を遂げた科学者でしたが、『シンエヴァ』では人類補完計画の提唱者、すなわち全ての元兇になっています。その結果、新劇場版における最終的な彼女の動機は「父の仇討ち」から「父の“世迷言”の落とし前」へと変わっています。

“イスカリオテのマリア”

冬月が別れ際にマリに投げかけた古い呼び名、「イスカリオテのマリア」。

この用語自体は聖書中にはなく、いわゆる「ユダ」、イエスを裏切った「イスカリオテのユダ」とイエスの復活を使徒(キリスト教的な本来の意味での)たちに告げ知らせた「マグダラのマリア」という二人の有名人をガッチャンコしたものと解釈できます。響きは神秘的ですからね。なお「イスカリオテ Ἰσκαριώτης」は「ケリヨトの人」というヘブライ語「イシュ・ケリヨト איש־קריות‎」に由来するとされています。「マリア」はイエスの母とカブったりする程度には極めてよくあるユダヤ人名です。

聖書学も神学も無視した言葉の響きだけから導かれるイメージとしては「復活の福音を告げ知らせる裏切り者」という意味不明な代物ですが、なんかこうエヴァ的にはしっくり来るような気がします。最後の最後の最後まで不思議なポジションから物語を見届け動かしてきたマリらしいといえば、らしいでしょう。

マリといえば、『:破』以降、人に変なあだ名ばかりつけてたマリが、アスカやシンジをちゃんと真名で呼ぶまでの変化が最高に尊かったですね。十何年引っ張った分だけ、破壊力も絶大でした。

「シンマリ」は一見意外な結末に見えますが、2014年に完結した「貞本エヴァ」、漫画版『新世紀エヴァンゲリオン』と驚くほど符合して終わっていることに気づかされます。貞本エヴァはまだ見ぬアニメ新劇場版の完結とは別物として貞本さんなりの答を出したものだとばかり思っていましたが、蓋を開けてみれば“原作サイド”(=カラー=庵野総監督)とかなりの部分で意識を共有していたことが窺えます。アスカに惹かれているケンスケ。そしてユイに並々ならぬ想いを寄せていたマリ。ユイの面影を持つ少年に心を惹かれるのも納得がいきます。

あの“貞本エンド”は、いつか来る「この日」のことを想定して最初から仕組まれていたのかも知れません。全部、ゼーレのシナリオ通りです。死海文書です。(ちなみにリアルの「死海文書」は聖書学的には、みんなが思ってるようなご大層なものではないです。あくまでも「こんな古い時代のユダヤ教文書が残ってるなんてマジすごいね!」というだけです。)

始まる世界

大人になり、姿も声も、そして性格さえも大きく変わったシンジ。そんなシンジがマリとともに宇部新川駅を出て駆け出していき、空撮へと移り変わる最後のシーン。「電車」というエヴァ伝統の記号からの「下車」という、象徴的な場面でした。

実写背景にアニメーションによる人物を手前だけに合成し、だんだん実写に切り替えていく。これまでエヴァで散々見せられてきたどの「現実に戻れ」カットよりも素晴らしく、素直に「はい戻ります」と言ってしまえるようなカットです。

この一連のシーンでわたしが気になったのは、まずシーン冒頭のカットで「入換信号機識別標識灯の点灯した入換信号機が停止現示であること」でした。これが意味するのは「列車は折り返すことも留置線・側線に入ることもできない」ということです。すなわち「電車」は、ここまで走ってきた路線を、この先もこのまま走っていくことになるのです。ゲンドウが降り、そしてシンジも降りた「電車」。また新たな誰かが乗ってくるのを、線路の上を走りながら待っているのかも知れません。

そして宇部新川駅ホーム上の、「ATS OK?」という確認標。「ATS」とは「自動列車停止装置」。列車が停止信号に近づくと警報を発し、そして停止信号を踏み超えると非常ブレーキをかけて強制停止する装置です。孤独の中で思い詰めやすいシンジをマリが導いていく描写は、既に『:破』から見られるものでした。シンジがマリの、そしてマリがシンジのATSとして相補的に生きていければ、あの2人はもう大丈夫でしょう。単なる偶然かも知れませんが、わたしにはあの確認標がそんな風に見えたのです。

15年ぶりに吸った「エヴァが過去になった世界」の空気

こうしてエヴァは、美しく幕を引きました。EOEが終わった後でエヴァにハマった私にとっては、人生で初めてリアルタイムで目撃した「終局」でした。何年も待ち望んでいたこの日でしたが、同時に、夢が一つ叶ったことによる形容しがたい喪失感を覚えています。「夢は追いかけているうちが一番キラキラしている」と、誰かが言っていましたね。

劇場を後にして帰路につき、15年ぶりに吸った「エヴァが過去になった世界」の空気は、とても懐かしくて少しだけ切ない匂いがしました。

映像作品としてのエヴァは完結しましたが、コンテンツとしてはこれからも様々な形でわたし達のもとに届けられることと思います。むしろようやく「完成」をみて材料が出揃ったことで、ここからが本当の始まりだという捉え方もできるかも知れません。

長かった10代の終わり、エヴァが想い出になった日。

エヴァの完結は、私にとっては「10代の終わり」そのものです。大人になる前の心残り、最後まで叶わなかったみんなの想い、願い。わたしが四半世紀にわたってエヴァに抱いてきた複雑で様々な感情全てに、庵野総監督は向き合って丁寧に答を残してくれました。その中には私が期待していたものとは違うものもありましたが、不思議と素直に受け入れられました。

ずっと手を付けられないでいた1997年夏の宿題をいま完遂し、ようやくエヴァを「想い出」にすることができました。

とりとめもなく色々と書き殴ってみましたが、わたしがこういった視点からアニメ作品を捉えられるようになったのもまた、エヴァのおかげによるところが大きいと思っています。「エヴァがワシを育てた」といっても過言ではないでしょう。

また次の素敵な作品に巡り会うための「おまじない」として、一旦「さようなら」を言わせてもらいます。

さらば、全てのエヴァンゲリオン。

ありがとう、庵野秀明とカラー・各社の全ての関係者たち。

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広島生まれ広島育ちの中野民。同人サークル「SHOWTIME」でプリキュアの音楽研究本やフォント研究本などを作ったり、イベントに出たり、DJやったり。プリキュア関係でのお仕事はCDBOXの選曲協力や原画集の編集作業補佐など。