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ブロック制への回帰

「最近のデッキ名はつまらない」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
〇〇ミッドレンジとか〇〇アグロとか、〇〇に色を表す単語(ギルド名など)が入り、その後にデッキの速度や方向性を表す言葉が繋がる。
特に、ミッドレンジという言葉は幅広く使われ、スタンダードでは〇〇ミッドレンジという名前のデッキしか上位にいないということも少なくない。
現在のスタンダードでエスパーミッドレンジ、ラクドスミッドレンジといった名前を聞き飽きたという人は少なくないだろう。とはいえ、これらのデッキに名前を付けたところで一般的に周知されてその名前が使われなければ定着もしないし意味がない。特に現代はインターネットが普及し、誰でも情報の発信ができる状態である。そうなるとデッキ名が一般的な呼称になるのも必然的であったのかもしれない。
少し前、といってももう7年も経っているので少しではないが、2015年のこと。デッキビルダーとして有名なマツガン(_matsugan)がモダンで作った“Super Crazy Zoo”(SCZ)というデッキがある。当時は全く一般的ではなかった≪死の影/Death’s Shadow≫というカードをフィーチャーして作り上げたデッキだ。その後、長く続く所謂“死の影デッキ”の祖と言える。しかしこのデッキも、(単語の選択にも問題があるせいか特に海外では)Suicide ZooやDeath’s Shadow Aggroと呼ばれていくようになった。デッキの出自が明らかであり、その発信者が命名したデッキであっても一般化されてしまうのだ。

ただ、それにしても、特にスタンダードにおけるデッキ名の単調さはここ数年加速している。
もちろん、インターネットの普及における情報化の加速は一つの要因であると思われるが、もう一つの問題がそこに内在していると考えている。それがブロック制の廃止である。

2015年から2016年のタルキール・ブロックを最後に、基本セットの廃止と同時に1ブロック2エキスパンション制に移行し、2017年から2018年のイクサラン・ブロックを最後にブロック制が完全に廃止された。ローウィンブロックなど例外はあるが、長らく大・小・小という形を維持していたブロック制はここでその歴史を終えている。この時期は、スタンダードは半年毎のローテーションを取り入れるなど、スタンダードの在り方についても迷走していた時期でもあった。
そして、ブロック制の終了と重なるように、今度は大量禁止の時期がやってきた。2016年以降はスタンダードにおいて毎年多数の禁止カードが輩出されている。
それに関しては書き始めるとそれだけで1つの論文が出来上がってしまいそうなので割愛するが、単なるWotCの方針変更だけではなく、ブロック制の廃止に向かう変化も少なからず影響していると考えられる。

そもそもブロック制とは何か。
当然ながらMTG黎明期にブロックという概念はない。単体のセットが発売されているだけだ。どれだけこのゲームを売り続けられるかもわからない時期なのでそれで当然だろう。ある程度安定して販売していることがわかり、ブロック制に移行した。

ブロック制のメリットはいくつか考えられる。
まず、壮大なストーリーに対して1セットでは表現しきれないことだ。ブロック制によって、1年かけて1つの物語を進めていくことで、緩やかにストーリーを進めながら、その細部までカードにして描いていくことができる。
カードのデザインにおいても、ブロックごとにある程度のテーマ性を持たせることができる。例えば、墓地利用をテーマとしたときに、フラッシュバックやスレッショルドなど多数の墓地利用能力が存在するが、1つのセットでは収録できるものに限りがある。それが、ブロック全体でテーマとすることで、複数の墓地利用カードを存分に収録できるし、墓地利用カード同士で相互作用を持たせることもできる。

それらは裏を返せばデメリットでもある。
1年1ブロックでは、インターネットなどで情報が加速する社会に対してストーリーの進行が遅すぎる可能性がある。
カードデザインにおいても、無数にあるテーマやデザインを形にするためにそのブロックに不釣り合いなカードを収録するのは望ましくない。また、同じようンデザインを1年間で3回見せつけられたら飽きてしまう人もいるだろうし、大・小・小と繋がるセットの作りに、リミテッドの視点も含めてデザインを合わせなければならないという制約もある。

これらは一長一短であり、どちらが必ず優れているというものではないと思われる。しかし、近年のMTGの状態を見るに、ブロック制への回帰が一つの打開策になるのではないかということだけは言わなければならないだろう。

先日≪食肉鉤虐殺事件/The Meathook Massacre≫の禁止が発表された。
WotCの声明文にあった「競技での黒の使用率を少し下げるために、我々は黒のカードを1枚禁止することを選択しました。」という1文は多くの人を驚かせた筈だ。そんなことで禁止にされてたまるかと。
これがブロック制の話とどうつながるかというと、そもそも黒系ミッドレンジが強すぎたというのが今回の禁止に至る前提だったという話だ。
そう、ミッドレンジ。言い方を変えればジャンク(Junk)と言われるパワーカードデッキだ。その環境に存在するカードパワーの高いカードを詰め込んだだけのデッキ。キーになるほど強いカードが存在することもあるが、デッキ内のカードに相互作用が働いて上手く機能するのではなく、ただ強いカードの集合体である。そして、現スタンダード環境において最もカードパワーの高い色が黒であったというだけだ。
「強いカード入れたら勝つなんてカードゲームじゃ当たり前だろ」と思う人もいるだろうが、そうじゃない。強いカードを入れたデッキだけじゃなく、カード同士の相互作用を重視したシナジーデッキや、時にはコンボデッキが存在してこそのカードゲームだと思う。
「高くて強いパワーカードたたきつけ選手権」では、非TCGプレイヤーが抱く「高いカード持ってる人が強いんでしょ?」という間違ったイメージそのものじゃないか。

これが本題だ。
ここ数年、スタンダードでパワーカード選手権の状態が続いている要因として、ブロック制の廃止があると考えている。もちろん、ブロック制のある頃に今でいうミッドレンジと称されるデッキがなかったわけではない。ジャンドなどはその代表例だろう。
しかし、ブロック制廃止後はそれがより顕著になっていると感じる。はっきりとした統計や根拠があるわけではないが、少なくとも開催された大型イベントのデッキリストを眺める限りはそう感じる。

当然、カードパワーが10のカードが大量に組み込まれたデッキに、カードパワー5のカードしか入っていないデッキでは勝てない。多少の有利不利はあるが、環境にカードパワー8~10のデッキが蔓延している状態で、ただただカードパワーが低いデッキで向き合っても勝負にならない。
ただ、単体のカードパワーが低くても相互作用により10を超えるパワーを引き出すということもできるのがTCGの楽しさの一つでもある。
この相互作用をシナジーと呼び、特にその相互作用への依存性が高い反面で相互作用により得られる効果が大きいものをコンボと呼ぶ。
コンボは、≪守護フェリダー/Felider Guardian≫の様に開発段階での確認をすり抜けてしまったり、≪精神力/Mind Over Matter≫の様に予想外の使用方法でコンボを生み出してしまったりすることで産み落とされるが、シナジーは意図的にデザインされる中で作られるものが多い。

親和や上陸、部族など、様々な相互作用を活用したデッキがこれまでもスタンダードの環境に登場してきた。現在、こういったデッキが全くないとは言わないが、大きく数を減らしているのは間違いないだろう。その原因がブロック制の廃止であると考えているわけだ。

わかりやすい例を挙げよう。団結のドミナリアで版図という能力語が復活した。過去に何回か登場した能力語であり、多色化(ほぼ5色)して各色の強力なカードを使いつつ版図という能力を活用することができるため、非常に強力な能力である。盤面にある土地タイプを参照して大きな効果を得るというその能力は多色化を推奨し、特にインベイジョンブロックの頃は人気があった。現在もこの能力が好きという人は少なくないだろう。
現代でも、3つの土地タイプを持った土地(トライランド)が存在していることもあって、十分にメタに食い込んでくる可能性もあるのだが、ご存じのとおり組めないとまで言わないが、勝ちたいなら選択するべきではないというレベルに過ぎない。Tierで言えば2~3程度だろうか。
単体のカードパワーが5のものに、版図というシナジーを組み合わせてもデッキのレベルが7~9程度までしか上がらない。そうなったら8~10のカードパワーを詰め込んだ黒系のミッドレンジ(ジャンク)デッキに勝る道理がないのである。

これは、版図という能力が1セットにしか登場せず、その他に土地タイプを参照するなど土地を活用するような版図とのシナジーの高いカードが少なすぎるというところに問題がある。
なんなら次の兄弟戦争はアーティファクト中心の単色推しのセットになるというのだから驚きだ。偶然ニューカペナの街角においてトライランドが収録されていたから版図というデッキが組めているが、もしこれが無かったら存在すらしえなかったのではないだろうか。そもそも、トライランドと版図のスタンダード落ちのタイミングは違う(筈)。来年の秋にニューカペナがスタンダードから落ちてしまったら完全に消えてしまうのではないだろうか。

もし、というのは存在しないわけではあるが、仮説として検証するには悪くないと思うので少し想像してみたいと思うが、版図を含んだ土地シナジーを組み込んだブロック制を採用していたらどうなっていただろうか。
当然ながら、版図を活用するためのトライランドのような相性の良いカードは同時にスタンダードを去るようにデザインされただろうし、版図という能力を持ったカードは現在の枚数よりはるかに多くなっていた筈だ。複数セットにおいて版図でなくとも土地タイプをフィーチャーしたカードを収録していれば、それらのシナジーにより一つのデッキが、単純なジャンクデッキを超えるカードパワーで組むことができたのは想像に難くない。

仮にブロックAで土地タイプとアーティファクトを中心に強力なアグロデッキ用のカードを収録し、ブロックBでインスタント・ソーサリー呪文を主体にブロックを構築しつつ墓地利用を取り上げたらどうなるだろうか。
少なくとも、今のようなただ強いカードを詰め込んだようなミッドレンジが溢れるような環境にはならないという想像がつくのではないだろうか。版図アグロと、対を成すアーティファクトシナジーデッキ、スペルを中心に落ち利用コンボでフィニッシュするコントロールなど明確に方向性の違うデッキが台頭するイメージが少なくとも自分の中には浮かんでくる。もちろんそれらに並び立つジャンクが存在する可能性もあるが、1ブロック通して組まれたシナジーを無視するような環境にはならない筈だ。
そして、その方がMTG“らしく”、楽しそうだと感じるのは自分だけではないと思う。

セット相互間のシナジーの薄い現在のスタンダード環境では、単純なカードパワーで勝るジャンクデッキをみんなが組むようになる。そして、強いカードというのは環境によってそれほど大きく変化するものでもないため、皆が同じカードを使い、同じようなデッキを組んで大会に挑むことになる。同じようなカードや同じようなデッキ同じようなゲームプランとなった結果、その中で多用されるカードが禁止されることになる。
だが、禁止されたところでシナジーがカードパワーを上回るわけではないので次のジャンクデッキがトップに君臨するだけだ。これが適切なのか疑問を投げかけないわけにはいかないだろう。

何もジャンクデッキが闊歩する環境が面白くないというつもりはない。
良い環境とは何かについて語ろうと思ってもまたそれは1つ記事が出来上がってしまうので割愛するが、個人的な見解としては“上手い人が勝つ”というのが一番重要であると考えている。つまり、運の絡むゲームではあるが、しっかりと実力や研究の成果が結果に反映されるゲームでなければ遊びたいと思えるゲームにはならないと考えているということだ。そして、ジャンクデッキ同士の対決がカードパワーの高さにかまけて技術介入度が低いということはないので、必ずしも現在の環境が悪いものだと思ってはいない。ただ、誰もが同じようなカードを使って戦っているのは、見ていて面白味が少ないという印象は拭いきれない。
環境の健全さだけでなく、MTG“らしい”様々なアーキタイプか活躍する環境を作るのであればブロック制への回帰も一つの選択肢ではないだろうか。

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