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-雑談-古典学習を考える①

「“”手に“”論文を書く」人、“勝小”です。
(当noteの前提・諸注意等については、こちらの投稿をご参照ください。)

こてほん

『高校に古典は本当に必要か』の略語だそうです。
(最近知りました)

2019年1月(第一回)と2020年6月(第二回)にシンポジウムが開催されていたようで、開催後にこの存在を知った私も、少し考えてみることにしました。

そもそもの前提は以下の通りです。
・私は教育関係者ではありません(いわゆる外野)
・私自身は高校時代に古典教育を受けました(理系進学)
・残念ながら両シンポジウムには参加しておりません(第一回の議論は軽く読んではいます)
・立場としては、“消極的否定派”と表現しておきます
(古典教育廃止には反対だが、必修とすることには賛成ではない)

利害関係が薄い立場だからこその意見もあるかと思いますので、お時間あれば一読頂き、次回以降の議論の“参考”になれたら嬉しく思います。
(外野である私の意見が採用されるようなことは、当然考えてもいませんが)

議論の前提(私の理解)

おそらく、議論は「高校での古典教育を廃止すべきである」とまでには至っていないと認識しています。(「必修ではなく選択科目とすべきである」という主張が“否定派”の主張であると認識しています。)

ただし、こちらの文科省資料(下図)を見ると、古典教育は現状も改正後も必修科目ではないようにも見えます。

雑03.古典01

おそらくは、大学入試における試験科目とされているため、実質的に必修科目となっていると解釈しました。
(間違っている可能性もありますので、その辺りはご容赦ください。)

念のため、「古典教育を廃止すべきである」とする意見に対する、私の考えを述べておきますと…

そもそも“不要な学習”というものは、基本的にはないと考えています

以上。

学習の優先順位について

そもそも、高校生活に時間的制約(基本は3年?)があることを考えると、学習する科目・分野の取捨選択は避けられないでしょう。そこに議論の余地は恐らくないかと思います。

近年の世の中は、“コスパ”という表現に代表されるように「効率」重視の傾向にあると思います。その中にあって、

・金額換算できる成果(≒利益)から、相対的に遠い側の学問とされている

・学習能力における国際競争力を維持・向上する上では、諸外国で学ばれている学習分野(数学・自然科学・国際共用語(英語))を優先すべきという考え方は否定するのが難しい

・国内においても、古典(原文)が日常生活で使われる場面は限定的

など、古典学習の優先度という議論において、避けられないマイナス要素の存在は大きく感じます。

古典学習が高校から消えた場合

多くの高校生に対して、“必修”として古典を教える(古典学習の強制)には、反対の立場です。しかし、古典学習を廃止する(科目選択制にした結果、淘汰されてしまった場合も含みます。)ことについては、賛成できません。

理由は、以下のようなことが挙げられると思います。
(古典学習に“賛成派”の立場の方々の意見も参考にしております。多くの方の意見を参考にしすぎたため、引用先をまとめられていないことをお詫びします。)

「日本古来の文化財としての古典」が存亡の危機に陥る可能性がある

高校での古典学習者の減少は、大学以降の古典研究者(専門家)の減少に繋がる可能性が考えられます。その結果、古典原文を理解できる専門家が減り、文化財としての価値がわかる人が減る(将来的にはいなくなる)可能性を否定できません。

古典由来の伝統芸能を本質的に理解する者が減る
(古典芸能衰退の懸念)

これは私の想像ですが、古典由来の芸能(能・歌舞伎など)の演者・演出家等は、おそらく古典の専門家に「解釈」、「時代背景」、「登場人物の心情」等のアドバイスを受けて、表現力向上の糧にしているのではないかと、思っています。
その中で、古典原文からの解釈・表現を読み解く力(専門家)が失われることは、古典由来の伝統芸能の衰退に繋がる懸念があると考えます。

諸外国で学ばれることの少ない、国語(現代文も含む)を学ぶことで、諸外国に対するアドバンテージが実はあるのかもしれない

これは、私が勝手に挙げていますが、具体的にはわかりません。
ただし、観光立国を目指し、その観光資産に文化遺産が含まれていて、“おもてなし”の精神を推進力とするのであれば…古典の深い理解が必要とされる側面は少なくともあるのではないかと思います。

結論(仮)

ただし、上記何れにおいても「高校生“全員”に対して、古典学習を強制する」理由としては、そこまで強くない印象があります。

すなわち、高校における古典学習者ゼロは困るが、全員でなくても良い

という、きわめて中庸で無責任な意見となってしまいました。

もう少し考える

古典学習を“選択制”をどのように実現するかを考えてみます。
(文量の都合で次回更新に回します。)

おまけ

古典学習否定派・賛成派それぞれの主張の中で、私の中では同意できない点がありましたので、そちらを加筆しております。

古典学習否定派
【現代の社会道徳(“ポリコレ”)的に不適切な表現(男尊女卑・年功序列)が含まれており、学習教材として適当ではない】


当時の価値観を修正できないのであれば、歴史的事実を踏まえた説明をすることが教育なのではないかと思います。上記主張が認められたとしたら、そもそも古典に限らず、歴史の授業や大河ドラマもNGなのではないでしょうか。“臭い物に蓋”をしているように感じ、かえってこの主張の印象は良くないです。

古典学習肯定派
【古典学習は学習者の幸福度向上に繋がる】

⇒幸福度調査に対しても似たような感想を持っているのですが、価値観の多様性を認める社会を目指すのであれば、「●●すれば、幸福になれる」に近い主張は、あまり前面には出さないほうが良いと感じました。
実際に、古典文学に触れて幸福を感じる人も大勢いらっしゃるとは思いますし、その方の価値観は尊重されるべきです。「このような素敵な作品がある」と古典文学の魅力を紹介することも称賛される行為だと思います。一方で、その価値観を他者(しかも、古典学習に否定的な立場の者)に主張することは、“その強さ次第では”価値観の押し付けになり、反発を生むような気がしています。
(“幸福度”や“価値観”に関する主張は、非常に繊細な取り扱いが必要だというのが私の考えです。)

※おそらくは、「古典学習の機会がすべての高校生から奪われる」状況を意識されての発言だと解釈しています。その場合は、古典学習に幸福を感じる高校生の機会を奪ってしまうことに繋がってしまいます。その文脈の中での主張であれば、私も同意します。

参考文献


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