総合商社の歴史


歴史については私の主観を入れる余地がなく、またさまざまな論文があるので、そちらをご紹介します。


総合商社のおこり

日本の総合商社の原型は,日本の近代化の始まりである明治時代の貿易会社である。明治政府の「富国強兵」「殖産興業」政策を受けて,国内の鉱業資源や繊維原料,食品などを輸出して外貨を獲得し,欧米列強の技術や物資を輸入する役割を担っていたと言える。

日本総合商社の特質

上記の通り、日本の成長を支えるために総合商社は始まりました。その後戦争を経験し、日本は敗戦します。戦後の日本において、総合商社は経済発展の牽引役として大きな役割を果たしました。

1950年代

三菱商事、三井物産、住友商事、丸紅、日商岩井などの総合商社が、アジア、欧米、中東などの海外市場に進出しました。①近代的な設備や技術の導入、②原材料の調達、③製品輸出,④輸出の拡大、を支えるべく、総合商社が台頭します。

1960年

商社は海外からの最新技術や設備機械の輸入に加え、商社金融機能も発揮していきますが、メーカーが貿易取引の経験を積み上げるにつれ、商社の代行業務は低下し、商社無用論が議論されるようになります。業界再編も進んでいきました。

1970年

ニクソン・ショックで為替が変動相場制に移行したほか、円高不況対策の金融緩和により余剰資金を抱え、土地や株式への投機が暴騰しました。また、石油危機時には石油価格が高騰します。このようなタイミングで、総合商社は投機的な行動、石油の売り惜しみをしたとされ、批判の対象となりました。

一方、この頃から総合商社は多角化に力を入れ、自動車、電機、金融、不動産などの新興産業にも進出するほか、①海外資源開発、②海外協力案件、③プロジェクト・ファイナンスといった機能をもちはじめます。


1980年

1980年代には、日本の総合商社がフィリピンのマルコス政権に対する政府開発援助(ODA)や、東南アジアでの森林伐採などにより国際的な批判を受けることとなりました。また、1980年代後半のバブル期には総合商社は急速なグローバル化を進め、海外投資や買収などを積極的に行いました。
一方で、プラザ合意を契機とした円高の進展により、日本製品の競争力が低下し、総合商社は収益を確保することが困難となりました。

1990年

バブル崩壊による不況などにより、多くの企業が経営不振に陥りました。その後、総合商社も事業の再編やリストラなどを進めました。また国内向けの投資にも力を入れており、特に小売業会への投資が目立ちます。
選択と集中を行い不採算事業を整理しつつ、利益性を重視する姿勢が養われ始めます。

2000年

新興国市場の急速な成長に伴い、総合商社はアジアを中心に投資や事業展開を強化しました。また、エネルギーや食料などの資源分野においても、需要の拡大に対応するため、資源開発や貿易事業などを拡大しました。

2010年

総合商社もデジタル化や環境問題などの社会課題に取り組むようになりました。また、グローバルなビジネス環境の変化に対応するため、M&A(合併・買収)やジョイントベンチャーなどの戦略的な提携も進められています。

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