夏よ、こい恋

イヤホンから蝉の声が聴こえた。その瞬間体に夏が駆け巡る。混みあった電車の中が夏に彩られた。サラリーマンのスーツすら色調が濃くなった気がする。車内に入り込む朝日の眩しさも、車窓から見える田んぼの青さも、空の水色も。

でもそれは一瞬で終わりを告げた。急激に色を失っていく車内に私は落胆した。

夏は好きじゃない。電車は弱冷房車とか言って暑いし、体の至る所の毛が見えるのが気になるし、汗をかいてベタつくし、顔の眼鏡焼けも気になる。汗臭い人も増える。不快だ。

でも夏のカラフルさは嫌いじゃない。世界全体が明るくなって、空も地面も花開いたように色彩が濃くなって、雲の白さが際立つのだ。海の青色も、空が反射してきらめきを増す。白い砂浜は太陽に焼かれ、海にさらわれる。

海がないところで育ったからか、海に対する憧れが強かった。川の冷たさと力強い流れも良いけれど、海の揺らめきも好きだった。

夏が恋しかった。散々夏に悪口ばかり言っているくせに、結局私は夏を欲している。開放的な乾いた空気の中でビールを呑んで、そこらで捕まえた男で性欲を発散させて、頭を空っぽにして、私でなくなりたかった。そういうことが出来るのは、私の中では夏しかなかった。一言で言うと、馬鹿になりたいのだ。私は。あれこれ考えず、毎朝電車にも揺られず、朝から洒落たカクテルを呑んで好きなだけ男に抱かれてその腕の中で死にたい。誰でもいい。その瞬間愛されているのなら。

刹那的な愛を求めることに世間の大半は否定的だ。何が悪いの? 私はいつもそう思う。常に愛に晒されて生きているから、「そんなのだめだよ」なんて言えるんでしょ? 心で吐き出した言葉が口をついて飛び出そうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える日々。じゃあお前が愛をくれ! そう言ったところで、誰が私を愛してくれるというのだろう。オナニーみたいな慰めと同情に塗れた愛なんか、クソ喰らえだ。お前の中指をへし折って、その指で天に向かってファックしてやる。なかなかロックだ。今度嫌いな奴に言ってやろう、そう心に誓うのは何度目か。実行されたことは一度すらない。

早く、早く、夏よ来い。私を解放してくれ。凍え死にそうなんだ。早く。

電車が最寄り駅に到着する。扉は無情にも、私を凍てつくような寒さの中に放り出そうと大きな口を開けて待っていた。最低な一日が、また、はじまる。

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