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『火葬人』訳者あとがき


 2012年末にシリーズ「東欧の想像力」の一冊として、ラジスラフ・フクス『火葬人』日本語版を刊行しました。
 おかげさまで、刊行から10年近くたった今も、根強いご支持をいただいています。この本がさらに多くの読者の方と出会うことを願って、訳者・阿部賢一さんによる「訳者あとがき」を公開します。

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訳者あとがき


「最も起源が古く、最も強烈な人間の感情とは、恐怖である。そして最も起源が古く、最も強烈な恐怖とは、未知なるものへの恐怖である」と述べたのはH・P・ラヴクラフトであったが、ラジスラフ・フクスという作家もまた、さまざまな形の「恐怖」を描き続けた作家であった。
 デビュー作『テオドル・ムントシュトック氏』(一九六三)では、ナチスからの招集状が今にも届くのではないかと不安に怯えるユダヤ人の「恐怖」が正面から取り上げられ、続く短編集『我が黒髪の兄弟たち』(一九六四)では、次々と姿を消していくユダヤ系の同級生との想い出が描かれるなど、フクスは第二次世界大戦下のユダヤ人の「恐怖」を初期の作品において繰り返し題材にしている。そのため、フクスを「ユダヤ系作家」と勘違いしてしまう人すらいたが、かれ自身はユダヤ系の出自ではない。たしかに、二十世紀後半の東欧文学において、第二次世界大戦、とりわけ「ホロコースト」の記憶は、ユダヤ系であるかないかを問わず、多くの人々の心に深く刻まれており、ユダヤ系ではない作家がこのテーマを取りあげるのはさほど問題視することではないのかもしれない。だが、フクスの取り組み方はけっして散発的なものではない。それでは、いったいなにがかれをこのテーマに駆り立てたのだろうか。
 まずは、その手がかりを探すべく、彼の生涯を駆け足でたどってみることにしよう。フクスは、一九二三年九月二十四日、プラハに生まれている。父は厳格な警察官、母は育児に最低限の関心しかもたず、フクスは幼少の頃から疎外感を感じていたという。一九三〇年代後半には、プラハ中心部にあるトルフラーシュスカー通りのギムナジウムに通いはじめるが、フクスにとっての思春期は、勢力を増しつつあったナチスの足音がプラハに忍び寄ってくる時代にほかならなかった。
 一九三八年三月、ドイツはオーストリアを併合し、その影響は、ドイツ系住民を多数抱える隣国チェコスロヴァキアにも及び、同年九月二十三日には、国内で総動員令が発令される。同月二十九日には、チェコスロヴァキアの代表が不在のまま、独、英、仏、伊の首脳がミュンヘンに集い、チェコスロヴァキアのズデーテン地方のドイツへの割譲を認める、ミュンヘン協定が締結され、チェコスロヴァキアの犠牲と引き換えに、ヒトラーの要望が認められてしまう。ズデーテンだけでは満足しなかったドイツ軍は、翌三九年三月十五日、首都プラハを掌握し、これによってチェコスロヴァキアは解体にいたる。スロヴァキアはナチスの傀儡政権によって独立を獲得し、チェコはボヘミア=モラヴィア保護領となり、ドイツの支配下に入ることとなった。
 フクスはまさにこのような時代にギムナジウムに通っていたのだが、近くにエルサレム・シナゴーグがあったため、同級生には数多くのユダヤ系市民がいた。ユダヤ系住民に対する風当たりが厳しくなり、かれらと自分とのあいだに絶望的なまでの境界が存在することをフクスは意識するようになる。回想録『私の鏡』(一九九五)には、次のような一節がある。

 ユダヤ系の同級生は、わたしたちと異なるところなど何もなかった。[……]だが、三月十五日以降、突如としてすべてが一変してしまった。まずかれらの父親が拘束された。弁護士、法律家、医師は、業務を行なうことも、職場に赴くことすら禁止され、市民としての職業も失った。それから、わたしたちの同級生に関わる命令が出された。映画館、劇場、博物館、美術館、レストラン、カフェ、あらゆる公的な場に足を踏み入れることが禁止された。学校は放校処分となり、市電には最終車両の一番後ろのスペースで立ったままでしか、乗車することができず、服には《Jude》と記された黄色と黒の星が付けられていた。そればかりか、川や池の岸でたたずむことも禁止された。これは奇妙に聞えるかもしれないが、人ごみのなかではほかの選択肢はなかった。
 そして、あらゆるドラマのピークを迎えることとなる──強制収容所への出発、そしてガス室での死が。トルフラーシュスカー通りのギムナジウムに通っていたわたしたちのユダヤ系の同級生は、このようにして生涯を終えた。[……]このあらゆる出来事はわたしを深く揺り動かし、わたしがその後に描く本、つまりユダヤの問題を書く動機となった。それからというもの、本当に良質の文学作品の第一の源泉は作者自身の体験と経験だというのがわたしの主張となった。歓喜であろうと、悲劇的な哀しみであろうと、魂から迸り出るものを心のなかから〈ディ・プレノ・クオレ〉執筆しなければいけない、と。上っ面の経験が本質にたどりつくことはない。

 それまで同じ時間を過ごしていた同級生が徐々に姿を消していく様子を目の当たりにしておぼえた衝撃は、フクス少年に強く刻まれることとなった。だがその衝撃は友人の喪失という体験だけではなかった。というのも、収容所には、ユダヤ人だけではなく、ロマ(ジプシー)、そして同性愛者も移送されており、同性愛者であったフクスは、同級生のみならず、自分も連行されるのではないか、とたえず不安に苛まれていたにちがいない。このような極度の不安感は、ユダヤ人に対する尋常ならぬ関心をフクスに呼び起こした理由のひとつだろう。
 だが、もう一点、フクスの家庭に関する事情も考慮すべきかもしれない。フクスの父が厳格な警官であったことは述べたが、ナチス・ドイツの侵攻が進んだ一九四〇年代前半には警察署長の地位に就いていた。そのような高位の職に就いていたということは軍事機密をある程度掌握し、テレジーンや東方へのユダヤ人移送にも何らかのかたちで関与していたと考えるのが妥当であろう。「劣等人種」の排除を推し進めているのが、ナチスの顔の見えない将校ではなく、日々顔を合わせている親類だったとしたら、フクスが悩まされていた不安は筆舌に尽くせないものであろうことは想像に難くない。換言すれば、万が一にも父親が息子の性的な傾向を知っていたとしたら、ほかならぬ父の手によって、収容所送りになる可能性すらあったのだ。このような点を考慮すれば、ユダヤ系の人びとに寄り添い、繰り返し自作のなかに描こうとしたフクスの意識の輪郭がほのかに見えてくるだろう。
 そのような不安感が多少なりとも取り除かれたのは、ナチスの脅威がなくなった戦後のことである。プラハのカレル大学で哲学と心理学を学んだフクスは、一九四九年に「ベルクソンの『創造的進化』の理念および道徳教育におけるその成果」という題目で博士論文を提出し、博士号を取得している。製紙工場で働いたのち、一九五六年からは国立文化財管理局、一九六〇年からは国立美術館の専門職員となり、文化財の保存業務にたずさわっていた。一九五〇年代半ば頃から執筆をはじめ、六〇年代以降に日の目を見る作品が次々と書き綴られていた。その結実が、一九六三年に発表されたデビュー小説『テオドル・ムントシュトック氏』であった。収容所に移送されるユダヤ人の不安と絶望を描いた同書は国内で大反響を呼んだほか、短期間のあいだにヨーロッパの主要な言語に翻訳され、フクスはこの作品によってチェコ文学を代表する作家のひとりとなる。
 その後も、短編小説集『我が黒髪の兄弟たち』、自伝的要素が色濃く反映した小説『暗い弦のための変奏曲』(一九六六)、『火葬人』(一九六七)といった作品を次々と発表し、作家としての不動の地位を築く。その一方、一九六四年にはミラノでイタリア人女性ジュリアーノ・リミッティと電撃結婚するなど私生活の面でも話題を振りまいていた(結婚生活は短期間で破綻し、フクスは妻をイタリアに残し、単身プラハに帰郷している)。
 一九六〇年代に活躍したボフミル・フラバルやミラン・クンデラといった作家の多くは、一九六八年のチェコ事件以降、作品を発表する機会を失ってしまうのだが、ラジスラフ・フクスの作品は刊行され続け、七〇年代には八作品が公刊されている。「人間の顔をした社会主義」を模索した「プラハの春」が頓挫したのちも、作品が発表することができた主たる理由として、フクス本人が政治的な姿勢を明確にしなかったことが挙げられる。公的な作家の大半が会員となっていた作家協会にも、フクスは晩年まで入ることはなく、公式の政治体制にも、反体制運動のいずれにも明確な意思表明をせず、グレーゾーンを這うように生きてきたフクスは体制側にしてみれば許容範囲内の作家だったのだろう。だが、その結果、「体制側の作家」という誤った認識が長年にわたって流布していたのも事実であった。
 七〇年以降の作品には体制側の要望に沿った小説も散見されるため、一般的には評価が高くないが、老夫人の最後の二カ月を幻想的に描いた『ナタリエ・モーシャブロヴァーの鼠』(一九七〇)、ピストルを置いた小屋のなかで友人とふたりで戦時中の友人たちの記憶を紡いでいく『マルティン・ブラスコヴィッツの姿』(一九八〇)などは、巧みな心理描写とグロテスクな世界観によって、フクスらしい小説作品に仕上がっている。さらに、六十歳にあわせて刊行された大長編小説『公爵夫人と料理人』(一九八三)は、フクスのライフワークとでも言うべき後期の傑作である。十九世紀末のウィーンを舞台に、主人公の貴族は博物館としてのホテル建設を切望するのだが、そこで繰り広げられるのは、ルドルフ二世的な「驚異の部屋」としての博物館であり、微細な記述は圧巻そのものであり、まさにムージルの『特性のない男』の系譜につらなる「中欧小説」の世界が展開されている。
 晩年は、回想録『私の鏡』の執筆に専念していたが、脱稿直前の一九九四年八月十九日、恐怖に取りつかれていたひとりの男は、プラハのデイヴィツェの自宅で、ひっそりとこの世を去って行った。不遇をかこっていた晩年を象徴するかのように、独り住まいだったフクスの遺体が発見されたのは、亡くなってから二日目のことだった。

 小説『テオドル・ムントシュトック氏』で主題として取り上げられていたのは、ユダヤ人が感じる内面の恐怖であった。強制収容所への移送を予期したユダヤ系のムントシュトック氏は、どうしたら移送の恐怖を克服することができるかという問いかけを自身に突きつけ、分身のモンと言葉を交わしながら、恐怖を克服する練習を積んでいく。さまざまな紆余曲折を経て、ついに自身の恐怖心を制御する術を身につけて意気揚々としているところに路面電車に轢かれて命を落としてしまう。制御可能と思われた「恐怖」はけっして統制できるものではないことを描いた、この物語は、当時のユダヤ系の人びとが感じていた「恐怖」を正面から取り上げた作品であった。
 それに対し、第四作目となる小説『火葬人』では、カレル・コップフルキングルというきわめて凡庸な人間が殺人者へと変容していくという「内なる恐怖」が取り上げられ、同氏の心理的な変容が巧みに描かれている。舞台は一九三〇年代末のプラハ。火葬場に勤めるカレル・コップフルキングル氏は、チベット仏教の書物を愛読し、家族を心から愛する、きわめて穏やかな人物として知られる。だが、妻には「ロマン」という別名で自分のことを呼ばせたり、火葬場の作業工程を《死の時刻表》と称して自宅に貼ったり、購入した肖像画を別人と言い張るような側面も持ちあわせている。この世で唯一確かなものは「死」であり、土葬ではなく火葬こそが生の苦しみをすばやく和らげるという揺るぎない信念を持っている同氏は、ナチ党員の友人ヴィリに感化され、ユダヤ系の妻そして息子を手に掛けてしまう。
 たしかに、本書もまた、他の初期作品同様、第二次世界大戦下におけるユダヤ人をめぐる状況が重要な要素となり、「ホロコースト」というテーマが影を落としているが、数多くある「ホロコースト」を描いた小説の作品群とはどこか異質なものが、この『火葬人』には漂っている。おそらく、それは「ホラー小説」に通じる雰囲気だろう。冒頭の捕食動物の館に始まり、蠟人形館、ボクシング観戦、シナゴーグ、そして火葬場といった設定はそれだけで陰鬱で暴力的なトーンをもたらしている。探偵小説や推理小説といった大衆文学を愛読していたフクスは、『キングコング』などで知られるイギリスの大衆作家エドガー・ウォーレスなどの名前を挙げながら、「探偵物や犯罪物、あるいはホラーといったジャンルは、思慮深く、そして趣味よく手が加えられていれば、文学的な価値を低くするものではない」と回想録で述べている。つまり、残忍なシーンを描いて恐怖心を煽るのではなく、読者の想像力をうまく刺激しながら、通常のホラー小説とは別次元の「恐怖」をもたらすさまざまな仕掛けをフクスは施している。主人公であるコップフルキングル氏の周りでは死のイメージが重層的に織り込まれているのだが、しばしばそのイメージは、単に恐怖を喚起するだけではなく、なにかことなる次元の寓意を喚起する装置となっているように思われる。
 以下では、本書を読み解くうえで重要と思われるいくつかの点を補足してみることにしよう。
 まずはなにはともあれ、火葬のことから始めなければならないだろう。今でこそ、日本やヨーロッパの多くの国において、火葬は一般的な埋葬方法のひとつとなっているが、キリスト教文化圏においては長年にわたって火葬は許されざるものであった。「復活」という信仰を重視するなかで、亡骸を燃やしてしまうことは、復活の可能性を否定してしまうことにほかならなかった。当然のことながら、ハプスブルクの時代に火葬は認められておらず、プラハで火葬が合法的に認められるようになったのは、チェコスロヴァキア独立後の一九一九年のことであり、火葬場の建築も一九二〇年代に入ってからのことである。つまり、本書の物語が設定されている一九三〇年代後半はまだ火葬が法的に認められて二十年足らずという時期であり、コップフルキングル氏が代理人を雇って火葬の申込者を募っているのは、逆にそれほど火葬が浸透していなかったことを示している。また、当時としてはきわめて近代的な埋葬方法である「火葬」に対して、コップフルキングル氏は、単なる業務以上のこだわりを見せていくのだが、かれの信念を支えているのが、創世記の一節であり、チベット仏教である。
 だが、火葬との関連のみで、チベット仏教が取り上げられているかというとそうではなく、時代的な背景との関係が多少なりともあるだろう。チベットの独立を果たしたことで知られるダライ・ラマ十三世は一九三三年に逝去する。その後、輪廻転生を信じる者たちによって数年にわたり転生者の捜索が続けられていたが、一九三五年七月、チベット東北部で生まれた男の子がダライ・ラマ十三世の生まれ変わりであるとの判断が下される。一九三九年夏には、男の子は捜索隊とともに首都ラサに入り、翌一九四〇年、ダライ・ラマ十四世として正式に即位する。このように、ヨーロッパがナチスに席巻されていた時代に、アジアではダライ・ラマの後継者探しが行なわれていたのである。
 コップフルキングル氏は、火葬とチベット仏教に対する関心を持っているほか、音楽、とりわけオペラの愛好者として、家族を愛する父親として描かれている。だが、それ以外の点については、同氏による語りが多く披露されているにもかかわらず、同氏の人物像については多くを知ることはできない。ここで浮かび上がるのは、他の人の発言を繰り返す「特性のない男」という人物像である。その空虚な人物像の一例は、命名行為に現れている。自身のファーストネームは本来「カレル」であるにもかかわらず、妻には「ロマン」と呼ばせ、理想の人物像を一方的につくりあげようとするが、ドイツ人の友人ヴィリからは、「カレル」というチェコ語の名前ではなく、「カール」とドイツ語風の名前で呼ばれてしまう。小市民的な理想は抱いているものの、それは悉く周囲に否認されてしまい、そればかりか、他の人物が用いた表現をそのまま借用し、まるで自分の見解であるかのように自分のなかに取り込んでしまう。自身の空虚さを埋めるべく、他者の言葉を内在化してしまう同氏には、批判的な眼差しが完全に欠落している。
 コップフルキングル氏の台詞のなかに、「名前は何も意味しない」といった表現が幾度か出てくるが、その言葉とは裏腹に、登場人物の名称は本書の世界観を読み解く仕掛けのひとつとなっている。「シュトラウス」、「ドヴォジャーク」、「ヤナーチェク」「ヴァーグナー」といった音楽家の名前が多く用いられているほか、火葬場の職員には、「ザイーツ」(兎)、「ベラン」(雄羊)、「フェネク」(キツネ)、「ペリカーン」(ペリカン)、「リシュコヴァー」(女狐)など、動物の名称が多用されている。本書は動物園のシーンから始まるが、まさに「火葬場」という動物園、あるいは見世物小屋へ読者を導き入れる構成になっている。
 そのほか、本書は、十七世紀に広がりを見せた黒死病に苦しむプラハの人びとを描いた蠟人形館、ボクシング観戦、シナゴーグ前で乞食に変装し、ユダヤ人を待ち受けるシーンなど、視覚的なイメージが強く残る情景が多数盛り込まれている。なかでも、中世の疫病、近代的な埋葬方法としての火葬、チベット仏教、そして「ホロコースト」を重ね合わせることで、ユダヤ人の問題に限定されない、むしろ人間の業や悪といったものの戯画性やグロテスクさが増している。このように、偏執狂的なグロテスクさへの執着、細部の叙述、そしてさまざまな文学的な仕掛けにより、『火葬人』は、単なるホラー小説の枠組みを越える一品となっている。

 本書『火葬人』は、チェコ・ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督のひとり、ユライ・ヘルツ(一九三四〜二〇一八)によって刊行直後に映画化されている。だが、撮影が行なわれていたさなかの一九六八年八月下旬、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻する、いわゆる「チェコ事件」が起き、その後「正常化」と呼ばれる体制権力の強化が進められていくなか、映画『火葬人』は公開直後にお蔵入りとなり、再公開は共産主義体制が崩壊した一九八九年を待たなければならなかった。往々にして著名な小説の映画化には失望させられることが多いが、ヘルツの映画は、フクス自身が脚本に関与したという事情もあり、本書のグロテスクな世界観が見事に映像化された傑作に仕上がっている。魚眼レンズを用いたモノクロの映像世界は、小説世界に通底したものでありながらも、まったく異なる体験をもたらしてくれる。日本国内では入手不可だが、何らかのメディアを通して鑑賞されることをお勧めする。なお、本書の表紙に同映画のスチル写真を用いることができたのは、各方面との仲介の労をとってくれたペトル・ホリー氏(チェコセンター所長[※本書刊行時])のおかげである。感謝の意を表したい。
 余談だが、晩年のチャップリンは、フクスのデビュー作『テオドル・ムントシュトック氏』の映画化を検討していたという。実現には至らなかったため、あの喜劇王がフクス作品の映像化をどのように構想していたかについては知る由もないが、おそらくチャップリンもまた、フクスの小説がもたらす「恐怖」の悲喜劇的な世界に魅了されていたことに疑いはないだろう。
 訳出にあたっては、Ladislav Fuks: Spalovač mrtvol, Praha, Československý spisovatel, 1967. を底本として用いた。最後に、本書を訳出する機会を与えてくれ、さらには的確な助言で本書の刊行へと導いてくれた松籟社の木村浩之氏に心より感謝をしたい。

二〇一二年十月八日

阿部賢一

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『火葬人』の紹介ページです。各オンライン書店さんの販売ページへのリンクも掲載されています。

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