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はじめてのお見合いnote

なかなか自分の身には起こらない出来事で、おもしろいなぁと思ったので、早速書く。

お見合いの話が来た

今日佐賀にいる祖母からちょっと電話していい?と連絡が来た。
こりゃまた夏だから(夏だから?)肉でも食べに出ておいで、というお誘いだろうと私は思った。
祖母はいつまでたっても私のことを小学3年生のわんぱく野郎だと思っていて、肉さえ焼いていればこの子は文句を言わない、と思っているところがある。
実際そうなのだが。

ところが電話をしてみると、話が違った。
お見合いの話があるんだけど、と言う。

・・・ほほう。

世の人々は「結婚しないの?」と言われるらしいが?

20代後半から30代の世の未婚の女性は、家族、親戚、職場の同僚、お節介な友人達から「結婚しないの?」「結婚しなさい」「いい人いないの?」「紹介しようか?」「なんだかんだ」「ああだこうだ」と言われ続けうんざりしているらしい。
そう言われ続けてようやく結婚した女性達は、結婚して良かったことの一つに、「もう結婚しろと言われないこと」と、言うらしい。(らしい)

らしい、というのは、私は実際、そういうことをほとんど言われずに生きてきたからだ。

電話をした祖母、そして私の母がそこのところをどう思っているのかは知らないが、直接そういう話をした記憶はほとんどない。
私は小学生の頃にはすでに、「結婚っていうのは世で言われているほどいいものではないのではないか?」と疑っていた子どもだったから、その頃から「結婚はしたくない」と口にしていたし、私のその言葉を、特に母はよく聞いただろうと思う。

それから、私は大学を出てからアルバイトを渡り歩いているので、職場というほどの職場に属したこともなく、挨拶以上の会話をするほどの関係性を職場で持ったこともほとんどない。

それから、美術大学を出た後就職をせずに制作活動を続ける、という同じような境遇の友人に囲まれているせいか、世の中で言われている(らしい)大学を出て就職をして何年経ったら結婚してうんぬんかんぬん、という正規のルートのムードを感じずに生きてきたのかもしれない。

と、いうかそもそも友人があまりいないんだった。
あとお節介な友人もいない。

なので周りから結婚についてうんざりするほど言われる、というやつを私は体験したことがない。
それは結婚を希望していない自分にとっては大変ありがたいのだが、と同時に世間が言うところのレールに全く乗っていないんだな、という、どちらともないぼんやりした気持ちにならないでもない。

お相手の簡単なプロフィール(お見合いっぽいやつ)

話を祖母との電話に戻す。

そのお見合いの話は祖母の親戚からまわってきた話らしい。そのことを説明した後で「条件を言うね」と祖母は言った。

【関東の国立大学を卒業、現在学校教員、40歳手前、両親は農家】

ぼんやり言うと、大体そんなかんじだった。
ぼんやり言わなくても大体そんなかんじだった。情報はかなり少なかった。一般的なお見合いがどんなものか知らないが。
この情報から何を思えばいいかよくわからなかった。

そして、こちらにその気があるなら写真を送ってほしいということ、こちらにその気があるなら近いうちに福岡まで行くつもりがある、ということを説明された。
この方は関東のどこかの県にお住まいということだった。どこかはよくわからない。

その気とはなんのことだ・・・。
なんでそちらの顔も知らないのにこちらから写真を渡さなければならないのだ。
私がどれだけ人に心を開かず、どれだけ人に警戒心を持ちながら生きてきたのか知らないでしょうが、そうなのですよ、ほほほほ。
そちらの「その気」もこちらにはわからないのにそんなこと言って、ほほほほほ。

と、内心思ったが、私も一応小学3年生の食欲を持ったいい大人なので、祖母にそんなことは言わなかった。
私は少しも悩むところがなかった。
ただ、「プロフィールどうこうといったことではなく、お見合いも結婚もしたいという希望がない。そう伝えてほしい」と祖母に言った。
祖母は、もしかしたら内心がっかりしたかもしれない。
それでも、わかった、とすぐに答えて、それから、こういう伝え方でいいか、と改めて確認してくれた。
私に強く何かをいう人ではないから、どんな返事をしても、そう言ってくれるだろうと思っていた。

ひとりは寂しいのか?

祖母が私に今まで言ってきた「結婚」らしい言葉は「ひとりは寂しいよ」ということだけだった。

その言葉が胸に染みるくらいには大人になっているけれど、その解決策が結婚だとは思っていなかった。
家族と過ごした子ども時代だって、人生で一番人が周りにいた高校時代だって、恋人がいる時だって、寂しくない時などなかった。
私はいつだって寂しい。
それはもう自分の寂しさを思えば、普段出せない瞬発力で町内を猛ダッシュできる。
いや、そんなものでは足りない、うんぬんかんぬん・・・。はぁ・・・。

結婚はさておき、誰かと一緒にいられるのなら、私もそうしたいような気がしなくはない。
人と一緒にいることの良さをちょっとも知らないという訳ではない。

けれど、その為にお見合いをしたり、マッチングアプリを始めたり、出会いの場に出かけたり、そういう能動的な動き方をするほど、私は誰かを求めているわけではなかった。
それは消極的だと言われても、待っていても出会いはないと言われても、いい歳してドラマチックな展開を求めるなと言われても(まぁ、どれも言われてないんですけど)それはそうなのだった。

私はどれだけ自分が他人と一緒にいることが苦手で、どれだけ自分が他人と気が合うという状態にまでもっていくことが困難で、どれだけ自分が自分のことばかりにしか興味がない人間か、さすがにもうよく知っているのだった。

奇跡的なものを待っているわけではなく、自分はそういうやっかいな人間なのだから、自分が一緒にいたい相手に出会うことは、それが、お見合いでも、アプリでも、どんなに信頼している友人の紹介でも、いい雰囲気のバーでも?なんでも、とにかく難しく、そりゃ出会えたら奇跡だよね、と自分でも言いたくなる、というだけなのだった。

「結婚」ってなんのことなのかしら

私は昨日たまたま、全く知らない人の婚活noteを最初から最後(婚約)まで読んでいたのだが、その人のマッチングアプリによる婚活は、とても自分が真似出来るものではなかった。
その人の婚活の履歴は別に特別なものではないのだけれど、私だったらマッチングアプリのプロフィールになんて書こうか考えるだけで一生が終わってしまう。だからマッチングアプリが出来ない。そう思った。

私は周りがどんどん結婚していっても(そもそも友達が少ないからそういう状況でもないんだけど)どんなにひとりが寂しくても、「自分が結婚していない」ということに焦ったり不安になったことは一度もない。
私は結婚というものに本当に興味がないのだろうと思う。
小学生で結婚というものを手放した人間の揺るがなさよ。

(実際は、誰かと一緒にいるために使い勝手のいい制度であれば、結婚するのもいいのだろうと思う。自分もそう思ったら結婚をするのかもしれない。だから厳密には手放していないのかもしれない。)

私は小学生の頃から「結婚とはなんたるか」を見極める冷静な分析力があった、というわけでは全くなく、単に両親を見て「結婚はとんでもなくつまらなそうだな」と思っていた。
それでも子ども心に「でも子どもが言うことだしな?」とも思っていた。(変な子ども)
成長するにつれ、確かに自分は両親と違う結婚生活を誰かとつくることもできるのだろう、とも思った。
しかし、成長するにつれ、自分自身のことももっとはっきりわかるようになってきた。
それは前述の通りだが、そうすると、やはり結婚、自分の中でそんなにしたいことでもないな?ということに、結局は落ち着くのであった。

私のお見合いプロフィール

結婚について自問自答するような普通の婚活noteのようなものを書いてしまい、少々恥ずかしくなってきました。
そんなつもりじゃなかったのに。
人の婚活noteを読むのはあんなに楽しかったのに。

そういえば、その婚活話を持ち出してきた親戚というのは、自分とは特に深い付き合いもなく、自分の近況も大して知らないと思うので、お相手の方にどんな説明をしたのかが気になった。

【福岡在住、思いやり100点、髪の毛つやつや、かわいい、好きな食べ物おからクッキー】

そんなところかしら?

るんらら〜💫💫


追記

寂しさとどう付き合っていくか、というのは、確かに自分にとっては重要な問題である。
みんなそうなのだろうか。

やらなきゃいけないいろんなことが終わらなくてつらい気持ちと、終わらなくて助かる、という気持ちがいつもある。



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