100日後に死ぬワニは僕の物語ではなかった

100日後に死ぬワニが今日死にました。

 ほのぼの日常系4コマでありながら、最初に100日後に死ぬことが宣言され毎日カウントダウンしていくという異色の作品「100日後に死ぬワニ」。ここで詳しく説明しなくても皆さんはその作品もその最終回もご存知でしょう。100日目が投稿された3/20の19:00にはTwitter上である種の狂乱が巻き起こりました。

 もちろん僕もその最終回をリアルタイムに読みました。そして、ある種の違和感。ある種の疑念が起こったのです。Twitter上で未だ誰も言葉にしていないが、確かに僕の中にある失望をここに書き残しておきたいと思います。

 本文に入る前に宣言しておきますが、僕はワニを一つの作品として鑑賞しています。ワニは友達ではありません。ですから、死を待ち望む描写が出てきますが、気を悪くしないで下さい。物語の最終回を一人の読者として心待ちにしていただけです。

 さて時刻を18:30ごろに戻してから話を始めましょう。僕はこの時大学で勉強して、何人かの友達と「ワニ30分で死ぬな」などと言い合いながら、その時を待っていました。 

 「死という一個人を超越した存在の前に日常を並べ、その落差によって現実を鋭敏に知覚させる実験的作品」。これが当時の僕の認識でした。実際、100日後に死ぬという要素さえなければ、どこにでもある日常系4コマ漫画で誰も見向きもしなかったでしょう。しかし、それが「死」という絶対絶望的な抗えない結末に対比されることで、凡百のTwitter漫画から抜け出したのです。

 手放しにこの作品を評価していたわけではありません。繰り返しですが100日後に死ぬと言わなければ、どこにである陳腐な作品なわけです。思春期の若者が夢を見つけ、彼女を作る。どこかで見たような作品の切り貼りで、新しい表現の仕方があるわけでもなく、何も感じない。どこにでもあるTwitter漫画でしかない。そう思っていました。

 しかし、この作品はその最後の瞬間。ワニの最期の瞬間に死という人間が決して知り得ない領域に切り込むはずでした。死の瞬間に粗製濫造の作品たちと決別し、死という最も重い主題を明らかにするはずでした。その文学に昇華する最期の瞬間を心待ちにしていました。

ここで死に方の大喜利ツイートを紹介しましょう。

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ワニ死に方格付けチェック

・インターネットやる価値無し
「幸せすぎて死にそうだ〜〜」

・三流漫画家
本当に死んだかどうかを有耶無耶にした終わり方

・普通漫画家
事故や事件による唐突な死

・一流漫画家
19:00に生配信が始まり作者が「ワニとは僕自身のことです」と言い残し拳銃で頭をぶち抜く

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 悪趣味と言われても作品を鑑賞する立場からは最終回に想いを巡らさずにはいられない。この中で最も文学的なのはやはり作者の自殺でしょう。しかし、それまでの展開で作者がワニに自分を投影している様子や、ワニの精神が不安定になる様は無い。とすれば、普通漫画家あたりでオチがつくのでしょうか?でも、それでは面白く無い。期待と不安の間で19:00になりました。

19:01になりました。

19:02になりました。

19:03になりました。

19:04になりました。

19:05になりました。

 ワニは現れません。いつまで経っても投稿されないのです。最高の結末です。これほどまでに素晴らしいことも驚くべきこともありません。ワニの100日目は無いのです。作者はすべての人間を欺いたのです。作者の自殺よりも美しく、誰も想像し得なかった幕引き、それが最終回の不在だったのです。

 一本取られたと思いました。死の瞬間ではなく、不在によって死を描き出す。かつてこのような作品はありませんでした。我々は18:30の興奮を永遠に持ったまま生きていくのです。同時に、これ以上に死の突然性を描くやり方もありません。当然あるはずだった「明日」がなんの予告もなく消滅する。それが死です。誰もが知っているこの事実をこのようなやり方で表現するとは。このために99日間毎日描き続けたのか。この作品は伝説になる、そう思いました。


19:20 最終回が投稿されました。

 「普通だね。」LINEの画面が3枚目と4枚目で連続していないという不自然さこそありましたが、それ以上に語るべきことはありません。ネズミ君が運転するバイクに轢かれたようにも読めますが、ほとんど情報がない。どこにでもある事故死です。

 どこにでもある死。それはそれで良かったのでしょう。わざわざ100日後に死ぬと銘打っていますから特別な何かを期待してしまいましたが、これまでの作風を考えれば当然の死に方です。何かを期待せずにはいられませんでしたが、この結末を弄ってもしょうがない。そう思わせるほど99日目までと整合する作風でした。

 TLには死とは本来このような呆気ないものだと評論する呟きも流れていましたが、僕としてはそれでは納得できません。死が呆気ないものだなんてことは誰でも知ってます。その死を如何に描くのか。死によって残された人は何を感じ何を得るのか。それを描かずして死とは呆気ないものだなんて言われても、怠慢としか思えません。


20:02 生きる。

 ここから何もかもが狂い始めます。僕の心もひと段落した頃、いきものがかりとのタイアップの動画が投稿されました。、ネットを漁るとどうやらこれは連載が始まってからいきものがかり側から声をかけて実現した企画らしい。最初から全部が新曲を宣伝だったという最悪の事態では無いようです。

 「生きる。」を聞いても、恐ろしいほどに何も感じなかった。僕の心には一滴の水も湧き出しませんでした。いきものがかり好きな人には申し訳ないけど。その後作者を見にいくとカナブーンとのタイアップも過去にしていたことを知りました。

 ここで「あっ」と声が出ました。ようやく気づいた。この作品は僕のための物語じゃなかったんだ。ワニが文学的傑作となることを心のどこかで信じていました。死という何も分からないテーマに一筋の光が投げかけられる日を心待ちにしていました。何度も繰り返すようですが、99日目までの作品は陳腐なものでした。だからこそ最期の一日にすべての望みをかけていたのです。

 しかし、違ったのです。100日後に死ぬワニは最初から最後まで商業主義の発露でしかなったのです。ワニなんていうのは、カナブーンといきものがかりを聞き、青年が夢を追う姿に自己投影し、恋人との関係に心躍らせる僕では無い人たちのための物語でしかなかったのです。これは作者が世の中に一撃を加えるためではなく、書籍とグッズを展開するための踏み台でしかなかった。

 僕の心の中にあった期待などというものは、自分で自分の心を覗いていたに過ぎなかった。ひょっとするとワニは停滞した僕の人生の活路を開いてくれるのかもしれないという淡い期待はただの幻影でしかなかった。僕が作品「100日後に死ぬワニ」との間に気づいてきたささやかだが、親密な関係などというものはどこにもなかったのです。

 これからワニTシャツを着る人を見る度に、僕はこの社会のシステムの中に僕の座る場所はないのだと何度も感じるのでしょう。

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