ブレードランナー2049、ブレードランナーよりもブレードランナー

今更ながらブレードランナー2049の感想。

細かい考察は省略して大筋を語りたい。Kとステリンのうち、どちらがデッカードとレイチェルの子供なのか?という謎が本作最大の魅力である。

話を素直に見れば、ステリンがデッカードとレイチェルの子供であって、Kは関係ない人間である。

しかし、その根拠になる革命軍のリーダーたるフレイザも胡散臭い。デッカードを殺せと命令してくるし、人間のレプリカントの子供を広告塔に利用したいだけに見える。彼女が子供を取り上げたという発言まで嘘くさい。

また、KとステリンのDNAが同じなら一卵性双生児の可能性もあるが、一切触れられない。

こんな風に考えると、以下の4つの可能性が生まれる。

1,Kとステリンは一卵性双生児でレイチェルの子

2,Kのみがレイチェルの子

3,ステリンのみがレイチェルの子

4,Kもステリンもレイチェルの子

本編の雰囲気は3だが、文学として意味があるのは1のみである。4は可能性はあるが、ナンセンスか。

このようにブレードランナー2049は一つの映画に多様な解釈の可能性がある。

一方、ブレードランナー原作はデッカードが人間なのかレプリカントなのかという謎を残して終わるが、実際には多様な解釈の余地はない。

劇場公開版では明らかデッカードは人間であり、ディレクターズカット版ではユニコーンの夢の挿話によってデッカードがレプリカントである可能性が示唆されている。

そこにあるのは異なる解釈を持った複数の映画であって、複数の解釈ができる一つの映画ではない。

このやり方ははっきり言って、インチキだ。

しかし、ブレードランナー2049は多様な解釈のできる一つの映画を提示し、ブレードランナーよりもブレードランナーらしい映画たりえているのだ。


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