100%の幸せな人生
よく聞く話です。
今月は好きなアーティストのライブがあるから、それまで嫌な仕事も嫌な人間関係も耐えられる、と。
よく聞く話です。
好きなアーティストのライブがあるけれど、それまであと〇〇日仕事と人間関係に耐えないといけない。
前者は楽観的
後者は悲観的
と分類されるでしょうか。
しかし、前者は自分を奮い立たせているだけで、仕事は嫌で、人間関係も解決できずにうんざりだ、ということを強調しているように聞こえます。
後者は言わずもがな日々が可哀想ですが、悲観的だからと言って、人生そのものが悲観ではないでしょう。嫌だ嫌だと保険をかけておくことで、仕事と人間関係で心が落ち込まないように先手を打っているだけかもしれません。
どちらも僕は時々抱く感情でもあります。
さて、この2人はどうやって100%の幸せな人生を送れるでしょう。100%の幸せがどんなものなのかはわかりませんが、僕からしたら、どちらも100%ではありません。なぜなら嫌な仕事と人間関係があるからです。嫌なことがあるのに、どうして100%が得られるでしょうか。
が、おかしなことに、仕事がなくて、人間関係が希薄な生活が100%の幸せ人生かといえばそうではないことも知っています。例え一生遊んで暮らせる金があったとしても。(.....まぁそんなお金を手に入れたことはないですけどね)
人生の幸せはある種反発でできていると思っていて、僕はいい小説が書けた時にはそれなりの幸せを感じるわけですが、困ったことに僕の小説の原動力は間違いなく負の力で、嫉妬とか妬みとか、人間くさい要素の反発で文が紡がれるのです。つまり、多少の嫌なことがなければ小説は書けません。小説が書けなければ、100%の幸せ人生とは程遠いです。
というわけで、冒頭であげた前者と後者も、もしかしたら仕事がなければ実はライブもそこまで楽しめないかもしれません。辛いことに耐えてきた日々が、好きなアーティストの汗と音色をより際立たせるのかもしれません。
ならば、何が100%の幸せなのでしょうか。少しくらい嫌なことがある人生が100%なのかと問うても、やはり嫌なことがあるのに100%と言い切ることは難しいと思ってしまう僕です。
じゃあそんなこと考えなければいいじゃないか。
ごもっともです。
答えを知っている人はいませんからね。
100%の人生を送っている人などいませんし、そう思っている奴がいたら、その人は誰かに重大な負担をかけてその感覚を得ています。僕はそれを幸せとは呼びません。
しかし考えてしまうこともあります。
目指している自分がいます。
答えがないくせに、今の人生は100%じゃないと思って絶望することだってあります。
もしかしたら生まれた瞬間が100%の人生で、あとは減っていくだけかもしれません。
考えて考えて疲れてきたので、お風呂に入って晩ご飯を食べることにします。
お風呂に入ってから晩ご飯がいいのか、晩ご飯を食べてからお風呂に入るのがいいのか.....。
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