夏の名残
ありがとうって言いたい人はいますか。
私は半人前の人間なので、そりゃまあいろんな人のお世話になりながら生きています。でも性分なのか、つい口をついて出るのはありがとうじゃなくて「ごめんなさい」とか「すみません」なんですよね。いいんですよ、って言ってもらえると、どうしようもない、どうにもならない自分がほんのちょっぴり赦された気がするから無意識にそう言っちゃうのかなあ。朗らかにありがとうって、言えるようになりたいですね。
さて冒頭のありがとうが言いたい人。言わなきゃいけない人は数え上げたらキリがないんですがそれはここではひとまず置いておいて、言いたくても言えない人の話を今日はしようと思います。私に、本を読むことの楽しさを、物語の世界の素晴らしさを教えてくれた人です。お名前が分かればよかったのですが、残念ながら調べても分かりませんでした。
小さな頃、お気に入りの本がありました。擦り切れて表紙がぼろぼろになるまで読んだその本の名前は、「童話の花束」。一般から公募された童話を集めた作品集です。その本に収録された、「ポストに届いた夏」という作品が、私は大好きでした。暑い夏の日、主人公のもとに海のデパートから、青い絵の具を持って海へ来てください、という招待状が届きます。聞いたことのない店名、ちょっと胡散臭いその文面に半信半疑で海へ行くと、眩い光に包まれた次の瞬間主人公は海の中にある、巻貝の形をした海のデパートのエントランスに立っていました。受付の女性に青い絵の具を渡すと、それを最近汚れてきた海の水をきれいにするために海水で薄めて使うのだと教えられます。絵の具の代わりに渡されたのは5枚の桜貝。それが、海のデパートでの通貨なのです。主人公は、FMとAM、イルカの鳴き声と波の音が聞こえる巻貝型ラジオ、文字盤を人魚が泳ぐ懐中時計、海のエッセンスを使った入浴剤、桜貝のイヤリングを買い、レストランに入って夕焼けの海の色をしたゼリー(隠し味に海のエッセンス入り?)を食べます。最後のひと口を食べた時、また眩しい光に包まれ、気がつくともとの砂浜に立っていました。ぱんぱんだったリュックもお腹も、ぺたんこに。でも、夢ではなかったようです。青い絵の具がリュックからなくなっていました。オレンジ色の夕焼けを見ながら主人公が家に帰る場面で、お話は終わります。
何せ小さい頃に読んだお話ですから、細かい部分は違うかもしれません。そこはお許しくださいね。このお話を私は毎晩寝る前に読み聞かせてもらい、字が読めるようになってからは飽きずに何度も何度も読み返しました。主人公が買ったものを自分も欲しいと何度思ったことか。いちばん欲しかったのは、人魚が泳ぐ懐中時計。きっと夢のように、幻のように美しいに違いありません。海のゼリー。青ではなくて夕焼けの色にしたところが、作者の方の感性の素晴らしさだといま改めて思います。主人公が海のデパートから現実の世界へ帰るのに、これ以上ふさわしい食べものがあるでしょうか。安らぎと、ほんの少し寂しさを滲ませる色。夕焼けを見るといつも目の奥がぎゅっと痛くなるのは、どうしてなんでしょうねえ。
きっとこのお話に出逢わなくても、他の本を読んで本好きにはなったと思います。でも重要なのはこれが、プロの作家さんではなくて一般公募の作品だったということでした。こんなすてきなお話を、物語を、いつか自分でも書いてみたい。そんな気持ちを、夢の種を心に蒔いてくれたのです。
へなちょこの私ですから、めそめそしてばかりいます。挫けてばっかりです。でも、いつだってそばに本がありました。言葉の海から、夜空に星が瞬くようにきらりと光る一文がその時々の負けそうな私を励ましてくれたから、いまここにいられるのだと思います。そしていつか書くんだ、という夢が、立ち続ける理由にもなっているのです。ポストに届いたあの夏の残照が私を、いまも優しく照らし続けているのかもしれません。
どうして、私が書くのはこうもまとまりがないんでしょうねえ。言いたいことはなんなんだ。ポストに届いた夏の作者さんに、あなたのおかげで本が大好きになった子どもが、物語と言葉をよすがに生きています。生きる力をくれてありがとうございます。そうですよ。これを書きたかっただけなのに。なんたる回り道。まあいいか。
読んでくださってありがとうございます。