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21_一人ひとりが、一匹、一羽、一頭が大切にされている場所
長野県伊那市立伊那小学校の公開学習指導研究会へ。10年前に参加した時は「個」と「全体」のバランス、学級経営に関心があったけれど、今回は「生きもの」と人とのかかわり、それらを積み重ねた子どもたちの姿が見たかった。神山町で取り組んでいる「食農教育」につながる何かを得たいという気持ちを携えて。
参観して感じていることをメモで残しておきたい。
「ヤギを飼っているらしい」とか、通知表がない、チャイムがない、ということで、探究する学びを実践したい先生たちの中で、知るひとぞ知る長野県伊那市立伊那小学校。昭和31年から従来の通知表が廃止されました。1998年の学習指導要領が「総合的な時間」を設定するよりもはるか前の1978年から40年以上子どもの意欲や発想に基盤を置く総合学習実践を行っており、毎年教師と子どもたちが探究するテーマを決め、3年間にわたってゆっくりと深く学んでいきます。
どの学年の内容も魅力的で、体が三つくらい欲しいと思ってしまう参観授業。3年生を参観。
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授業場所である「湧水の森」まで徒歩で向かった。
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冷たい空気で顔がヒリヒリ。到着する頃には体がポカポカ温まっていた。
担任の先生の心の内を後ほど聞くことになるのだけれど、頭で判断する前に思わず体が動くような場面に出くわした時の行動こそ、その人を表すのかもしれない。「いのち」に真摯に向き合う姿勢や、子どもたちのやり取りに見られるやさしさは、決して教えることのできないもの。ほんとうに大切なものを、大切にされていることが、子どもたちの生活を支えている。しあわせな気持ちになった。
「見取る」という言葉は学校教育の中ではよく使われる言葉だけれど、伊那小学校の実践を見聞きしてその認識をあらためた。「見取る」とは、児童の心の内を、価値判断せず、共感してありのままをわかろう(感じよう)とするもの。どのような理解の仕方をしているのか、どのように考えたのか、評価せず肯定的にとらえるということ。見取りの仕方を変えると、眼差しが変わる。(平野朝久さんの講演より)
協議会では、参加者から担任の先生へ各自が見取った児童の姿を根拠にいくつか質問が投げかけられた。担任の先生と子ども一人ひとりとの3年間の積み上げが想像できるような応答に、何度も涙が込み上げてきた。
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研究協議会で畔上一康さん(信州大学)が引用されていた、矢野智司さんの体験の意義に関する記述。
私たちは没頭して夢中になって遊んでいるとき、いつのまにか「私」と私を取りかこむ「世界」との間の境界が消えていくことがある。すぐれた体験は、このような自己と世界とを隔てる境界が、溶解してしまう瞬間を生みだす。(中略)深い感動は言葉にならない。言語化の困難なところ、つまり意味として定着できないところに、生成としての体験の価値がある。私たちはこうして、深く体験することによって、自分をはるかに超えた生命と出会い、有用性の秩序を作る人間関係とはべつのところで、自己自身を価値あるものと感じることができるようになる。未来のためではなく、この現在に生きていることがどのようなことであるかを、深く感じるようになる。自己の尊厳はこのような体験を母体に生まれるのである。
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