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万物一体の仁 〜日本の地域企業が世界平和を本気で目指す思想と実践〜

本末転倒と言うことわざの由来は、学びには本学と末学があり、人のあり方、真理に基づいた考え方を学ぶ本学を置き去りにして、やり方、手段を学ぶ末学ばかりを行使することを指しているとのこと。私が20年近く学び、実践し続けてきた原理原則系マーケティング(外部環境に左右されない独自の市場の構築)の極意は「あり方に始まり、あり方に終わる。」でした。結局、長年掛けて学び取ったのは事業は本学(人の道を全うする在り方)を収めることで経済性も持続可能性も兼ね備えられるようになるとの結論です。私が所属している「本業で社会課題の解決を目指す」経営者の集まり、経営実践研究会でアドバイザーの小山邦彦先生からその本学を学ぶ本學塾なる勉強会が催され、この度、陽明学を学び直す機会を頂きました。自分自身への備忘録を兼ねて、全6回の講義での学びと気づきをここにまとめておきたいと思います。今回は第四講「万物一体の仁」について備忘録を残します。

人も自然も地球も全て繋がっている

伝習録の中ですべての人が生まれながらに持つ良知が天理とつながっているとの概念とともに、繰り返し述べられている万物一体論。万物とは草木国土と全てを含むあらゆるモノを指しており、人と言う「個」がそれらの自然界の全てとつながっており一体であるとの考え方です。神話の時代から現代に至るまで八万の神を敬い自然を崇め共に生きる共生と畏れを価値観の中心に持ち続けてきた日本人にはとても馴染みがあり、当たり前の思考ですが、王陽明はこの考え方を世の中をよくする基本としています。今回はその基本を深掘りし、その概念を混迷を深める今の世界にどう生かせるかを考える機会を頂きました。今回示された参考文はこちら。

万物一体
夫れ人は天地の心にして、天地万物は本より吾が一体なる者なり。
生民の困苦茶毒は、孰れか疾痛の吾が身に切なる者に非ざらんや。
吾が身の疾痛を知らざるは、是非の心無き者なり。
是非の心は、慮らずして知り、学ばずして能くす。
所謂良知なり。
良知の人心に在るは、聖と愚とを間つる無く、天下古今の同じき所なり。
世の君子、惟だ斯の良知を致すを務むれば、則ち自ずから能く是非を公にし、好悪を同じくし、人を視ること猶お己のごとく、国を視ること猶お家のごとくにして、天地万物を以て一体となす。
天下の治まる無からんことを求むるも、得べからざるなり。
古の人の能く善を見ること啻に己より出づるが若きのみならず、悪を見ること啻に己入るが若きのみならず、民の飢溺するを視ること、猶お己の飢溺するがごとくにして、一夫も獲ざることあれば、己を推して諸を溝中に納るるが若き所以の者は、故らに是を為して、以て天下の己を信ぜんことを靳むるに非ざるなり。
其の良知を致して自ら慊からんことを求めんと務むるのみ。
中公文庫 伝習録 P269

一体とは相手の疾痛を我が事と感じること

「一体」とは自然界全てを指している以上、もちろん人同士の繋がりも包括して全てが不可分(分けようにも分けられないほど、密接に結びついていること。)の関係にあるとの意味を持ちます。「生民の困苦茶毒は、孰れか疾痛の吾が身に切なる者に非ざらんや。」とあるようにこの考え方を進めると、全てを分離して考えない、人や物や自然等、全ての対象を自分自身と一体として考えれば自ずと当たり前に良知(知っている良いこと)を実行できる。考えるまでもなくできる様になる。との考えに行き着きます。当然、人々を苦しめている世の中の不条理、課題を正さなければならない。となりますし、中国で君子の条件とされた民の痛みを自分の痛みとして捉える思考を持つようになります。

王陽明 https://www.52lishi.com/article/46419.htmlより拝借

世界平和実現の思想

このような陽明学の観点から世界を見れば、万物一体論と言うのは、もし世界中の人々がこのような思考を持てば、同時多発的に次々と世の中の問題や課題を解決し、不条理を正し、格差と分断を解消し、世界平和を実現する根本的な考え方と言っても過言でないかもしれません。小山先生曰く、中国、儒教におけるこの思想は国を治めるための思想と言う面が強いのに反して、日本では世界に類を見ない程の神社仏閣の数がそれを顕著に表している通り、全国津々浦々の民にまで八万の神への信仰が浸透しており、自然との共生、万物一体という世界を良くする為の思想が日本人にこそ根付いているとのことでした。その例として幕末の志士であり安政の大獄で斬首に処された橋本左内の詩を紹介頂きました。

數闋の矯歌 綠酷を侑け 綺羅月を邀え 江臺に坐す
誰か知る 一片清輝の影 嘗て澳門の白骨を照らし來るを
(いくつかの短歌を歌いながら盃をかたむけ、美しい月の下、川の畔の部屋に座す。誰が知るであろうか、この月光がマカオで西洋人に殺された東洋人の白骨を照らしていることを)

橋本左内
福井藩士、志士、天才思想家。 著書に15歳の時に志を記した 『啓発録』(1848年)がある。 安政の大獄で25歳で死罪となった。

人と認められなかった東洋人の悲しみと怒り

幕末、西欧列強諸国はアジアの国々を次々と植民地として征服し、そこでの搾取でさらに国力を強める圧倒的な暴力の行使を競い合いました。有色人種は同じ人ではないとのその思考に対して日本人としての危機感を覚えるのは当然ですが、同じ東洋の人々の苦しみや悲しみを自分ごととして怒り、悲しんだのを詠んだこの詩は万物一体の思想が色濃く反映されています。その後、大東亜戦争に突入してアジアの国々を日本が植民地化したと言われていますが、あの戦争は西欧諸国からの解放戦線だったと未だに日本、日本人に対してリスペクトしてくれている国も人も確かに存在します。解釈は様々に分かれるところではありますが、少なくともアジア、人と見られていない東洋人を守るために命を投げ出して戦おうとした意思は大本営にも戦場の兵士にも確実に存在していたと思います。それも、元来日本人のDNAに刻まれていた万物一体の思想と儒学の教えを独自に発展させて武士道にも通じる思想、「仁」という人が元来持っている自然な広く深い慈しみの心に対する理解が国全体に広く浸透していたのと無関係ではないと思うのです。

橋本左内 Wikipediaより拝借

日本の地域企業から世界平和を

もし、多くの人が万物一体の仁を持つことができたなら世の中は圧倒的に優しさに溢れるようになります。そしてそれは即ち孟子が「惻隠の情」として井戸に落ちかけている子供を助けない人はいないことを例にとった、人が生まれ持って身に付けている「良知」を表出することに他なりません。その入口はまず意(私意、私情、私欲)を排すことができるか?であり、その先に身の回りの人の痛みを我が事と捉える、次にステークホルダー、地域社会、国全体、地球環境とその共感と一体観を順番に広げて隔たりを取り払いあらゆる問題や課題を自分ごととして悲しみや苦しみを無くし、解放する取り組みを広げる姿勢と在り方を多くの人や企業が持つようになることです。そしてそれは日本という国の実体である経済そのものである地域企業から巻き起こして行くしかないと思っており、その延長線上に世界平和があると私は真剣に考えています。

日本の感性と精神性の存在意義

今回の本學塾の最後に小山先生から「世界に比類なき万物一体観、その鋭い感性と精神性を持つ日本人はそれをどのように生かすべきなのか?」との問いが出されました。私の答えは本業を通して社会課題を解決することにコミットした経営実践研究会のメンバーと共に各分野での実践と連携を強め、広げ、誰もが尊厳と生き甲斐をを持って生きられる世界へと社会変革を起こすことだと思っています。本業で社会課題の解決を目指すとは万物一体論に立脚した思考であり、世界中から日本こそが共感資本社会のベストプラクティスだと称賛される様になればそれが世界に広がって世界平和を実現する。
それを叶えるために日本が世界に類を見ない長い歴史を積み重ね、文化を醸成してきたのだと思っています。戦後、一度はGHQに破壊されかけた日本の価値観、日本に根付いてきた万物一体の仁を今一度見直し、若者の教育に復活させ、事業を通して社会に実装することで世界における日本の存在意義が明らかになるのだと思うのです。今回の講義は現在私が取り組んでいる職人高校設立プロジェクトの根本的な理論構築を明らかにしてもらえたような、大きな勇気をもらえる時間になりました。小山邦彦先生には心から感謝申し上げます。深謝。

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学歴社会からこぼれ落ちた子供達にモノづくり業界でチャンスを掴める高校を設立するプロジェクト立ち上げてます。

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