見出し画像

マネタイズと社会課題解決のパラドックスからの脱出

昨日のnoteでは、経営・事業は結局、コミュニティ・デザインに尽きる。との持論を書きました。古から商売は信用と信頼と言われ続けていますし、その実践によってコミュニティーが生まれ、それが世界に類を見ないほど長寿企業が日本に多く存在所以であるのは納得される方も多いのではないでしょうか。しかし、欧米式の短期決算、株主利益の最大化を是とするパラダイムが一般化した今の日本では、共感で繋がるコミュニティを作る必要性を感じながらも出来ない方、取り組めないと言われる方を散見します。
そんな自社利益と社会的価値のパラドックスに迷い込んでしまっている方に私がいつもお伝えしているパラダイム・シフトのキッカケについて続けてみます。

ルールとパラダイムは合っているか?

まず初めに最も重要なのは、パラダイムと言われる世界に対する見方、前提条件や物事の定義を間違ったまま、その延長線上でいくら思考を巡らせても絶対に出口を閉じられた迷路から抜け出せる事はないとの事実認識を持つことではないでしょうか。地中に潜るとか、壁をよじ登る、空を飛ぶ等の発想の転換をしなければ、ぐるぐる同じところを回るばかり。出口の無い迷路から脱出した人たちは違うルールでゲームに臨んだことに気がつくべきです。
そんな観点で、多くの人がハマってしまう経済と道徳のパラドックスを考える必要があり、基本的な定義やルールから順番に見直すべきではないかと思うのです。
当然、まず初めに行うべきは経営・事業の定義についてです。ただ、経営とは何か?その問いの前に、誰もが知っていて、しかし正面から向き合えていない真実に目を向けて大前提に据える必要があります。それは、人は誠実さ、真摯さに対して美しいと感じ、利己主義、自己中心的な人に対して醜いと感じる事実です。ドラッカー博士はこれを世界共通だとその著書に残しています。

仏教辞典より拝借

地獄を蠢く餓鬼は醜い

醜い、忌み嫌われる人や会社、サービスが絶対に広くマーケットに受け入れられることはありません、長く続くことも。ただ、残念なことに人は嘘がつけるし、また騙されるので、詐欺や詐欺まがいの利己主義なビジネスも世に蔓延っているのが現実です。しかし、古今東西、そんな世の中の為にならない事業が長続きした試しはありません。少し長い視点で見れば必ず、駆逐されて破綻してしまいます。これも圧倒的多数の人が理解していると思います。ただ、自利を求めるのは悪いことではないし、世の中は白黒ではなく、グラデーションで成り立っているのでどこまでが美しく、どこまでが醜いのか?との基準が人によってバラバラ、法を犯したら完全アウトなのは従前ですが、その手前までは非常に曖昧で、違法ギリギリを狙ったら得をする風潮さえあります、醜いですが。
地獄に堕ちた餓鬼が三尺三寸の箸で自分の口に食べ物を運べず痩せこけていく法話の如く、与える意図のない人や企業は称賛されることはありません。

市場経済の真理

今だけ、金だけ、自分だけ良ければそれでいい。そんな思考の人に仕事を頼みたい人も、一緒に働きたいと思う人もいない。そして、情報化社会が極まったと同時に、パワハラが許されない強者と弱者が逆転した世界では、社会全体の意識が人としての在り方にとても敏感になっています。絶対的権力を持っているはずの与党の最大派閥が解体されたことで多くの人が気付かされたと思いますが、これまでグレーゾーンで誰にもバレない、大丈夫だろうと誤魔化してきたものが次々と白日の元に晒されて社会から抹殺されています。事業を持続させるために収益を上げることは絶対的に必要ですが、社会的価値を生み出さない会社は淘汰を余儀なくされます。意識する、しないに拘らず社会課題(人の苦しみや悲しみ、差別や区別、環境への負荷、それらを生み出す無関心)を産み続けている事業所は淘汰される時代になっているのです。信頼が最重要である。との理論は善悪の問題ではなく、古から引き継がれてきた市場経済の真理であると認識すべきです。

厚生労働省HPよりパワハラの増大

条件と優先順位がパラドックスを生み出す。

この前提に立てば、共感され、信用と信頼の絆で繋がったコミュニティーを形成することの重要性と、そのデザイン自体が事業そのものであるとの私の持論もずいぶんしっくりと入るのではないでしょうか。
しかし、人間誰しも無限のリソースを持っている訳ではなく、費用も時間も人材も限定された条件内で事業を行わなければなりません。信用と信頼を得るには、利己主義を脱して「人に与えるコミュニケーション」が必要なのはわかっていても、目先の売り上げや収益が無ければそもそも事業は続けられない。与えてばかりでは破綻してしまう。優先順位を決めなければ何も進まない、まずは自社の収益構造をしっかり構築することから。
しかし、そこにばかり注力すれば人や市場から美しくないと見られてします。醜悪だと感じられる事業は長く続けられない。同時にコミュニティの形成には進まない。これが多くの経営者が悩み、解決の方向が分からないと迷い込む迷路、パラドックスです。

失われた実存的パラダイム

経済と道徳のパラドックスから抜け出すために私が提唱している概念というか、定義の見直しがあります。それは、日本人なら誰もが学校で習った考え方がそもそも根本的に間違っているとの事実です。
それは、1÷2=?の数式の答えです。この問いに対して殆ど全ての人が0.5もしくは1/2と答えます。これが日本で行われてきた教育であり、洗脳です。実際は、1つのものを2つに割れば、半分ずつが2つになります。
真実は1÷2=0.5+0.5が正解なのは誰もが認めますが、誰もそんな風に答えません。リアルなこの世界での真理とは実存に由来する概念でなくてはならないはずです。しかし、消え去った半分に対して、全く気にしないように戦後の教育で全国民が教え込まれていてしまっています。しかし、昔の日本には全く違う考え方が、人々の心に根付いていました。

最も重要な日本での学び

10年ほど前、私たちの会社で外国からの技能実習生の受け入れを行っていた頃、張という中国からとても真面目で優秀な若者が来ていました。3年間の実習期間を終えて、中国に帰国する際、日本の想い出として私に書を書いてくれと彼は頼みました。どんな言葉がいいのか?と聞くと、彼は「残心」だと答え、心を残す、割り切ってしまわないとの考え方が日本に来て最も大きな学びだったと口にしました。彼の実習期間中、私がしつこいくらいに伝えたのは習慣の大切さであり、諦めずに継続する事の大きな効果性です。毎日、仕事に追われて心に余裕が無くなっても決めた習慣は必ず守る。出来なくても諦めたり割り切ったりせずに心を残す事で、途切れた習慣に再チャレンジする。その姿勢を貫いて彼は日本語検定1級を取得して帰国し、今ではメーカーの執行役員として大活躍をしています。彼に教えていたつもりが逆に教えられた格好ですが、改めて心を残す在り方の重要さに気付かされました。

どっちも、の選択と日本の誇り

人生や事業を一として、その目的や目標の達成のために行動を細分化するのは誰しもが使う常套手段です。達成困難な目標も細分化してみたら、その一つひとつは意外と簡単に出来ることばかりだったりします。
事業で考えれば、まず経済的価値と社会的価値の創出の二つに割ることになります。そして、それぞれは別物ではなく、そもそも一つなので本来、優先順位などつけられないのですが、限られたリソースでその実現を目指すが故に、まずは持続できるように自分のことから、経済的な側面から片付けて、と選択しようとしてしまいがち。この残り半分に心を残さない二項選択が既にパラドックスに陥る思考であり、コミュニティ・デザインを阻害して未来を創造出来なくさせてしまう事に気づくべきです。
〜だから、と条件をつけて行動しない、選択出来ない人が多過ぎるのが日本が閉塞感に包まれている最も大きな原因ではないか、と思うのです。
心を残す武士道的なパラダイムを日本人は持っている。その誇りを取り戻したいものです。

_____________________

武士道の源流とも言われる中国の古典、論語や大学を紐解きながら在り方を探究するカリキュラムを備えた高等学校を運営しています。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?