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本末表裏一体論 〜何をやるかよりどうやるか〜

人が成長するための学びには本学と末学があり、常に本学を中心に置き、末学はその後に習得するものだと言われます。本学とは人としてどうあるべきか、何のために生きるのか?との人生に対する根源的な問いに対する答えを導く学びであり、哲学や目的を明らかにするための内観です。末学とは人生や事業の目的を達するために何をどのように行うのかと言う戦略や戦術で、そこにばかり固執して人生や事業の目的やあり方を明確にすることなく、やり方ばかりを習得しようとするのを本末転倒と言います。事業においても何のために行うのか?との目的やなんのためにあるのか?の存在理由が最も重要なのは自明の理ですが、同時に何を行うのか、どのように行うのかが明らかにならねば全く何もコトが進みません。特に、財務体質が脆弱な中小零細企業にあっては常に走りながら整えるべし。と言われるように、末学で足元の資金を稼ぐ力を得ながら、同時並行して本学で組織やビジネスモデルの根幹を整えるのが一般的だと思います。そう考えると、本末転倒では話になりませんが、「本末平行」が現実的な考え方ではないかと思うのです。

本末表裏一体論

昔から「木を見て森を見ず」と言われるように、目先、足元の事ばかりにとらわれて全体像を見失うのは愚の骨頂だと言われます。しかし、逆に「鹿を逐う者は兎を顧みず」との諺もあるように、大きな目的や目標ばかりにとらわれすぎるとその日の食い扶持を損ないかねません。本学を学び本質的な考え方や概念を修める事は重要ではありますが、その本学を深めるのに大切なのは机上の空論ではなく実践を通して経験を積み重ねることであり、具体的に今、何をどのように行うべきかを学ぶ末学も決しておざなりにする事はできません。世の中はすべからず、何事も表裏一体にできています。

何をやるかよりもどうやるか

今、具体的に何をどのように行うかを考える末学で重要な事は目的意識を明確に持つことであり、目の前の行動の延長線上に、あるべき姿や目的がつながっていることを確認しながら行動の選択を行うべきです。これを見失うと本末転倒となってしまいます。そしてその次に大切なのは「何を行うか」よりも「どの様に」(=どの様なレベル、精度で行うのか)に意識を置くべきだと思っています。本学を経験則として習得する為の実践の入り口は誰にでも出来る当たり前の事を誰にも出来ないレベルで行うところから。挨拶一つ、掃除や後片付け、前日の準備など、ふつーに毎日行っている業務でさえ、誰もが凄いと言うレベルまで精度を上げる事で人からの信頼を得て、圧倒的な成果に結びついたりします。

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計画を立てられない職人達

「何をやるか」に対して「どうやるか」に留意するというのは端的に言えば計画を立てることに他なりません。この当たり前過ぎる理論に残念ながら多くの人は慣れ親しみすぎて真摯に向き合わなくなっていると最近になって気がつきました。特に私が生業としている建築業界ではそれが顕著で建物の精度には気をつけるし、設計という名の計画の段階ではディティールに拘る人も多くおられます。しかしながら、実際の現場で施工する実施計画は大まかなスケジュールを立てて、半ば成り行きに任せながら最終的に辻褄合わせを行う事があまりにも多すぎると感じています。天候や職人の体調などに大きく左右される現場でのモノづくりは現場を進める本人が出来る限り詳細な計画を立てて、自分自身で日々の進捗を管理しながら計画通りに進める意識を強く持って業務にあたるべきだと思うのです。

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どのようにやるかですべての課題を解決する。

子供でも知っている、何かする時には計画を立てると言う当たり前の事を高い精度で出来る様になれば、実は殆どの経営課題が解決します。予定通りに工事が終われば売り上げ(入金)が確定します。綿密に準備を行えば工事の精度は上がり、工期遅延のクレームも無くなります。先々まで予定が組めるので休みも取れるようになるし、ライフワークバランスを良くできます。経営の実務は「売る(マーケティング)」「作る(プロダクト)」「回す(マネジメント)」の3つに大別されると言われますが、売る以外の課題解決は全て高い精度の綿密な計画を立てることで解消します。それどころか、実はマーケティングも、精密な計画を立てることができれば確実に課題解決に結びつけることができます。これが何をやるかではなく「どのようにやるか」の方が重要だと私が考える理由です。誰にもできない位高い精度で計画を立てることに取り組んで見られてはいかがでしょうか。

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