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満街の人、皆、聖人 〜共感資本社会への基本思想としての陽明学〜

本末転倒と言うことわざの由来は、学びには本学と末学があり、人のあり方、真理に基づいた考え方を学ぶ「本学」を置き去りにして、やり方、手段を学ぶ「末学」ばかりを行使することを指しているとのこと。私が20年近く学び、実践し続けてきた原理原則系マーケティング(外部環境に左右されない独自の市場の構築)の極意は「あり方に始まり、あり方に終わる。」でした。結局、長年掛けて学び取ったのは事業は本学(人の道を全うする在り方)を収めることで経済性も持続可能性も兼ね備えられるようになるとの古典通りの結論です。私が所属している「本業で社会課題の解決を目指す」経営者の集まり、経営実践研究会で、アドバイザーの小山邦彦先生からその本学を学ぶ本學塾なる勉強会が催され、この度、陽明学を学び直す機会を頂きました。自分自身への備忘録を兼ねて、全6回の講義での学びと気づきをここにまとめておきたいと思います。今回は最終講「満街の人、皆、聖人」について備忘録を残します。

市井に良知を落とし込む

今回の最終講で小山先生から事前に提示された伝習録からの一節は「満街の人、皆、聖人」でした。これまでの学びの中で東洋哲学の性善説の代表格とも言われる陽明学の中心的概念である「良知」の存在を現実として市井に見出したとも受け取れるこの一文には、なるほど良知とは天理であるとの定義では世界はこうなるのか。と、目を見開かされる様な想いと共に、何の疑問も疑念も持たずにこれが真理だと心底信じられるには一体どれくらいの修行が必要なのか?との迷いというか、悩みが生じました。孟子が提唱した惻隠の情は井戸に落ちそうな子供を見かけると誰もが躊躇う事なく手を差し伸べて助ける。と、誰しもが生まれながらに持っている善き心の存在を明らかにしました。しかし、私のような修行が浅い者にとっては満街の人(街の全ての人)が皆、聖人とまで言い切るのには流石に躊躇ってしまいます。実践哲学の遥かなる深みを感じさせられる一節です。

満街の人、皆、聖人
一日、王汝止、出遊から帰る。先生問いて曰く、遊で何を見しや、と。対えて曰く、
満街の人はてれ聖人なるを見せり、と。先生曰く、你も満街の人はてれ聖人なりと看くも、満街の人も你は是れ聖人在りと到看きしなり、と。
又一日、董羅石、して帰る。先生に見えて曰く、今日、一異事を見たり、と。
先生曰く、何なる異ぞ、と。対えて曰く、満街の人、てれ聖人なるを見たり、と。
先生曰く、これまた常なる事のみ。何ぞ異と為すに足らん、と。
伝習録

誰よりも愚劣な講師 

 私は若かりし頃、随分と人様、世間様にご迷惑をおかけしました。今振り返ると穴があったら入りたい、赤面するほど恥ずかしい所業の数々を重ねて来た経験があり、その上で現在、3つの法人事業所の代表を務め、講演や研修を行ったり、時には学校の教壇に立たせて貰ったりしています。本来、そんな偉そうなことが言える立場では無いのを自分自身で重々認めながらも乞われるまま、恥ずかしげも無く人前に登壇するのは、どーしようも無かった私でも、学びの機会を得て気付きを持ち、意識から態度、そして行動を変容に繋げた事で真っ当に生きられる様になった、そんな体験を若い人にも味わって貰いたいとの想いです。確実に当時の私よりも優秀な若者に大きな活躍をしてもらいたいとの願いを込めてオファーを頂くと断ることなく、どちらかというと積極的に人前で話す様にしています。

王陽明

自己欺瞞との訣別が良知を開く

中卒の私がガラにも無く教育や研修の事業に取り組んでいるのは、自分自身の変容もありますが、起業してからの20数年取り組んで来た自社のスタッフへに対する教育と導きの結果を見て、人は変われるし、誰しも大きな可能性を持っていて、機会に巡り合うことさえ出来れば才能を開花させるのを間近に見てきたからでもあります。そして、若者に対して全員私よりも優秀だと断言出来るのは、人は皆、善き心を持っていて、その心のままに行動に移すことが出来れば必ず多くの人に共感され、支持され、応援されるのを知っているからです。今回の講義でも小山先生から「良知は消し去ることはできない」とのお話がありました。王陽明曰く「人の胸中には各々箇の聖人あり。ただ自ら信じ及ばず」と、磨けば光る原石を必ず人は持っていると繰り返されています。私が職人育成を事業の根幹に据えてきたのは、個々の良心を信じてきたからに他ならず、学歴や職歴に関係なく全ての人に大きな可能性があるのを体感してきました。まさに良知の存在が事業を支えてくれました。

才智や分量ではなく純度

聖人を目指す。というと随分と浮世離れした感じに捉えてしまいますが、世の中を平和で誰もが生き甲斐を持てる理想の世界にしていくには、善き心をそのままに行動できる人が多く必要なのは誰しもが理解するところ。そして、人を聖人と呼ばれる程に本当に良くしていくは、才知や(善き心の)分量ではなく純度で決まると伝習録には書かれています。

蓋し、精金なる所以の者は、足色に在りて、分両に在らず。聖たる所以の者
は、天理に純なるに在りて、才力に在らざるなり。故に凡人と雖も、肯えて學を為むること、此の心をして天理に純ならしむれば、則ち聖人たるべし
伝習録

天理とはそのまま人が持つ良知とも一体であるとは以前の学びにありましたが、天理に純なるとは、結局、人が持つ良心を迷うことなく従って生きることを指しています。本来の善きことを知っているにも関わらず(責任の所在や時間の都合、見て見ぬふりなどして)善きことをそのままに行えない自己欺瞞から脱出して、その純粋さを高めるほど、聖なる人に近づいていく。それこそが自分自身の思考と行動を整合する知行合一であり、世のため人のためになるばかりでなく、自己達成や自己超越と言われる人間の最上位の欲求を満たすことが出来る概念なのだと改めて学ばせて頂きました。特に、「凡人と雖も、肯えて學を為むること」のくだりは私の経験と合間ってこれこそが信じるべき真理だと胸に刻み込んだ次第です。

金融資本主義から人材共感資本社会へ

今こそ陽明学を学ぶべき理由

今回で小山邦彦先生による陽明学を学ぶ本學塾の最終講が終了しました。少し寂しいというか、分厚く難解な伝習録をもっと深く継続して学びたいと感じました。どんな講座でもですが、最も重要なものは最後に伝えられます。これまでの6回の講義の内容を振り返ってみて改めて、伝習録の中で王陽明と弟子たちとの間で何度も繰り返され、深掘りされ続けられた「良知は万物の根源」との広く限りなく深い実践哲学の要諦に触れられた気がします。
「先生曰く、良知は是れの精霊なり。這些の精霊は、天を生し、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。皆、此れより出づ。」人が持つ良心、善き心を信じることを実践に落とし込むことは信頼と共感の輪を広げます。現代に蔓延する欧米式の強欲資本主義が生み出してきた解決できない数多くの社会課題、その解決の鍵は共感資本社会へのシフトだと言われています。王陽明が実践哲学の中心に据えた致良知こそ、新しい世界への大きな糧になると感じた次第です。そして是非とも多くの人に陽明学に触れる機会を持ってもらいたいと思いました。半年間にも渡る充実の講義を頂いた小山邦彦先生には心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

1.徐愛の序 ~固定観念や一定の価値観にとらわれない 
2.知行合一 ~二項対立は分裂と争いを生む
3.立 志 ~あなたの已むに已まれぬ大切な思いは何か? 
4.事上磨錬 ~感情に取り込まれず、感情を丁寧に脇に置く 
5.万物一体 ~自分と万物とは繋がっている故の仁愛 
6.満街の人皆聖人 ~すべてに例外なく良知が宿る
本學塾 カリキュラム

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建築実務者向けに致良知を開く研修を行っています。

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