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VUCA時代の他力本願考

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

― 『歎異抄』第3章

親鸞聖人に興味を持って歎異抄を手に取ったのはかれこれ10年以上前のこと。不良少年でどうしようもなかった私が、大工になり、ひょんな流れで工務店経営者になって少し経った頃で、なんとか慣れない経営を成り立たせようと必死にもがいていた頃でした。

悪人正機と他力本願

その時に親鸞聖人が唱えた代表的な概念「悪人正機」である悪人こそ成仏できなければならない。という考えに触れて何か救われたように感じました。五木寛之の「親鸞」を読んで人間味あふれる親鸞聖人の人生を垣間見たことから興味を持って、難しい歎異抄を繰り返し読んだ覚えがあります。
念仏をただひたすら唱えるだけで誰もが成仏できると、単純明快な信仰を説いた親鸞聖人と言えば、他力本願との考え方を広めたのが有名です。ただ、一般的に他人頼みで努力しない人を責める言葉として間違った認識と使い方をされているのを散見します。多く知られていると言っても本質的な意味合いを理解して他力本願という言葉を使っている人がどれくらいいるか?と考えたら些か微妙な感はありますが。とにかく、当時、悪人正機と他力本願は私の中で大きなテーマとして反芻し胸に刻み込んでいました。

https://tokuzoji.or.jp/akunin-shouki/

分かっていないことを分かっていない

私は20年近く前から毎月、ビジネスコーチによるコーチングのセッションを受け続けています。冒頭に引用した親鸞聖人のことを急に思い出したのは、そのセッションの中で、「今になって漸く他力本願が分かってきた。」との言葉が私の口を衝いて出てきたからです。2012年の自身のブログを見返してみたら、親鸞聖人が示した善人と悪人、自力と他力を逆転させるパラドックスにハマりながらも、それでも一応、分かった気になった体で文章を書いていました。それが、実はあまり深い部分まで理解は出来ておらず、表面的にしか分かってなかったいなかったのが10年以上経った今になって露見した形です。
古の先達が人生を賭して紡ぎ出した哲学や概念、現代まで語り続けられてきた観念などは、人々が考え、顕してきたものが長い時間の中でふるいにかけられ、人類の叡智となり現代まで継がれてきたものです。それらはやはり真理の匂いがしますし、なんらかの本質を言い当てていると思います。私達が本を数冊読んだくらいで深く本質まで理解できるわけがありません。当たり前ですが。
それにしても10年以上経って漸く肌感覚で理解できてきたというのは、少し時間がかかりすぎている気がしますが、他力本願の概念を忘れる事なく覚えていただけでも悪い気はしません。意識はしていませんでしたが、きっとこれまでの道のりに少なからず活きてきたのだと思います。

https://data.wingarc.com/unknown-unknown-23097

何者でもない、圧倒的事実

他力本願が身に染みて分かった。というのは、自分一人の力が圧倒的に無力だとの自己認識に他なりません。何をやっても、いつまで経っても何者にもなり得ない自分に絶望を感じた時もありましたが、良く周りを見渡してみると、助けてくれる、一緒に働いてくれる仲間や手を差し伸べてくれるクライアントや先達に多く恵まれていることに気づかされます。
冷静に考えてみれば、今の何不自由もない暮らしは、全て誰かが生み出してくれたものやサービスで成り立っており、自力でできていることなど何一つありません。おかげさま。との、その感謝を胸に、少しでも世の中に受けた恩に報いることを心がけて日々暮らせるようになってこそ、、初めて他力本願の言葉が自分のものになるのだと今更ながら腹に落としました。しかし、人はそもそも忘れっぽく、我が我がとの深い業を持つ生き物。感謝の心などすぐに霧のように消えてなくしてしまいます。親鸞聖人が日々日々絶える事なくひたすら念仏を唱えるべし。と言われた意味がわかる様な気がします。

進撃の巨人 地ならし

世界中の人の本願成就

VUCAと言われる全く先行きが見えない不安定で複雑、曖昧な激動の世界に生きる今、私たちは世の中の動きや流れに無関心に成り行きに身を任せていてはなりません。弱肉強食の世界は放っておくとどこまでも悪くなってしまいます。最後は虐げられた弱者がブチギレ反撃する「地ならし」と進撃の巨人で示唆された究極のフラット化しか選択肢が無くなってしまいます。
世界を滅ぼしかねない核戦争の脅威にも、行き過ぎた強欲資本主義が生み出す支配者と奴隷の世界にも多くの人がNOを突きつけるしかありませんが、世界平和を叫ぶには私達は笑える程無力です。自力で出来る事などほぼありません。
混迷を深める今の時代では、唯ひたすら南無阿弥陀仏と唱えるだけではなく、今の暮らしが出来ていることへの感謝の意を行動に現し、目指すべき世界と自分の無力のギャップを認めて他力を頼み、世界中の人々の望みである本願成就を唱える時だと思うのです。太古から人類の叡智の源となった共同体を再構築にて世の中に蔓延する不条理を一つずつ正ていくしかないのだと思います。

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古典を紐解きながら現代をいかに生きるか?との問いを持つ学びの機会を提供しています。


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