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聴こえなくなって、良かったこと

実は数ヶ月前から突然、慢性の中耳炎(多分)が発症し、左耳がほぼ聴こえなくなりました。50歳半ばを過ぎて、加齢のせいもあるのか?とか、コロナワクチンを打ったのがやっぱり失敗だったか、と後悔したりとか、色々考えましたが原因は良く分かりません。耳の問題って非常に厄介で、医者に診てもらったところで薬を入れるくらいしか出来ることが無いのをよく知っているだけにそのまま時間薬に任せてます。そもそも、若い頃に素潜りにハマり、風邪っぽい時にも海に入っていたせいで、息抜きがうまく出来ず、水圧で鼓膜を破るのを繰り返したせいで、右の耳の鼓膜にも大きな穴が空いたままで、聞こえにくい状態だったこともあり、この度、本格的な難聴になってしまいました。夏に健康診断に行った際にはれっきとした難聴だと診察をされ、障害者の認定手帳こそもらえませんが、中程度の聴覚障害者の仲間入りを果たしました。

https://www.ncgg.go.jp/hospital/navi/38.html

は〜?なんだって?

とはいえ、全く聴こえないということもなく、補聴器などを使わずになんとか生活はできています。ただ、マスクをはめた人と話すと、声がこもって全く聞こえなかったりするし、声の小さな人に対しては、何度も聞き直したりしてしまいます。一度聞き返すのは良いのですが、二回目、三回目と「は〜?なんだって?」と繰り返し聞き返すのは吉本新喜劇の婆さん役でもあるまいし、気が引けてなかなか出来ません。一度聞き返しても聴き取れない場合は、分かった顔して流してしまうことが少なからずあり、その会話は無かったことに。本当に困ったもので、どんどんコミュニケーションが取れない人になってしまいつつあります。
もちろん、大事な話をする際は、はじめに耳が悪くて聞き取りに難があることを伝えてから会話を始めます。それでも繰り返し聞き返すのは鉄のメンタルが必要で聞き返せないままになることもしばしば、非常にマズイ状況です。

最悪のモデレーター経験

先日、ハーバーホールで開催された地域フォーラムin兵庫でパネルディスカッションのモデレーターを務めました。去年から、いくつかのイベントで壇上に上がり、ディスカッションを仕切る事が続いていたので気軽に引き受けましたのですが、今回はいつも少し勝手が違いました。そのホールではスピーカーが観客席に向いておえい、壇上にはほぼスピーカーの音声は聴こえない構造になっていました。当然、パネラーの方々の話は地声を拾う必要がありましたが、それなりに距離が遠く、私のポンコツに耳ではその音は殆ど拾う事が出来ませんでした。パネルディスカッションが始まってすぐにそれに気が付きましたが、さすがに会話を止めて音声さんにスピーカーの音量、もしくは方向性を修正して欲しいなんて事は言えるわけ無く、途切れ途切れに聞こえる声を繋ぎ合わせ、唇の動きであたりをつけてモデレートするという暴挙に出てしまいました。繋ぐ言葉に迷いまくり、時にトンチンカンな返しも混ぜながら、当たり障りのない質問を投げるという体たらくを晒してしまう結果になりました。とにかく、ここ数年で一番焦った経験になりました。。

ムーンショット計画の良き一面

多くの人に迷惑やストレスを撒き散らしながらもなんとか日常を過ごしておりますが、徐々に人前でコミュニケーションを取るのが億劫になってきつつあります。申し訳ないし。そんな私の救いはイヤホンで音量を調整し、確実に聞こえる環境を整えられるオンラインでのコミュニケーションです。
コロナ禍以後、一気にオンライン・コミュニケーションの普及が進み、対面で話し合う意味が問い直されるようになりました。いる場所に関係なく、気軽に顔を見ながら話ができるようになったのは本当に便利になりましたし、確実に世界が広がった、というより世界は狭くなったように感じます。同時に、多くの人がやっぱり、実際に時間と空間を共有して対面で会話することの大事さを再認識したと口にされていましたし、私も講演の依頼を受ける際は、相手の反応が見えないウェビナーでの講演はお断りしています。リアルで会うことを重視していた私がオンラインに救いの手を求めるなんてちょっとしたジレンマですが、政府がムーンショット計画として推し進めているICTの革新が人の肉体的障害を解決するツールになり得ることを改めて体感させられました。

人を人として観る

耳が聞こえづらくなったことで良いことなど何一つありません。しかし、爺さん婆さんが加齢と共に耳が遠くなるのは自然の摂理でもあるし、それは遅かれ早かれ誰にでも訪れること。そして、老化は聴こえだけではなく、腰が曲がったり、歩きづらくなったり、物覚えが悪くなったり、様々な現象になって現れる人にとっての必然です。人は誰しも障害者になるのだとの当たり前すぎる道理を再認識することが出来たのは、私の中でちょっとしたパラダイムシフトで、障害を持つ人が一気に近しい存在に感じられるようになりました。当たり前すぎることではありますが、障害は肉体的な特徴の一つであり、メガネをかけているか、いないか程度の差異でしかありません。
社会に合わせた人を教育するのではなく、人に合わせた社会に改革していくべきとの考え方が腹に落ち、私の信念でもある、「人を人として観る」との在り方がしっかりと身についたように感じています。
聴こえづらさは多くの方に迷惑をかけてしまっていますが、聴力を半分以上失ったことで、世の中をよりフラットに観ることが出来るようになった気がします。人は人、誰もが侵されることない尊厳を持って生きている。そのことにまっすぐ向き合えるのは大きな収穫だと思った次第です。

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